第五十四話 証明しない一行
面会室を出たあと、リディアは鞄を研究室の作業台の脇に置いて、迎えに来たミレイユの馬車に乗った。冊子は鞄に入れたままにした。持っていけば、また前のようにミレイユの前で出しかけてしまう。
前から約束していた夕食だった。ローデン侯爵邸のミレイユの部屋で、二人分の皿が小さな卓に並んでいた。
「それで、どうなの。お仕事は」
ミレイユは葡萄の粒を一つ摘んだ。
「進んでる。騎士団から資料を借りて、研究室で一緒に読んでるの。公爵様も来て、作業台で」
「公爵様が、研究室に」
「台帳に名前を書いて、バルド室長の立会いで」
リディアは話し始めると止まらなかった。
花屋の注文はやはり彼だったこと。噂の手紙は恋文ではなかったこと。北門の外を止めていた理由も、一部は聞けたこと。
一つずつ挙げていくと、疑っていたことが一つずつ消えていく。それを並べるのは気持ちがよかった。
「だから、前に思っていたような人ではなかったの。少なくとも、思っていたほどには」
ミレイユは葡萄の皮を皿の端に置いた。
「疑いが晴れた話は、よく分かったわ」
「うん」
「それで、この頃。あの方と一緒にいる時、あなたはどう感じてるの」
リディアは杯を持ったまま止まった。
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「どう、って」
「疑いが晴れたかどうかじゃなくて。一緒にいて」
「今日は、腹が立った」
考えるより先に出ていた。
「言いたいことを言ったの。言い返されなかった。それで、また少し腹が立った」
「それから?」
リディアは答えようとした。
順に挙げれば言える。会議で自分の案を採ったこと。茶を選び直してくれたこと。台帳に名前を書いたこと。どれも本当で、どれも好ましいことだった。
けれど、口を開く前に浮かんだのは、そのどれでもなかった。
作業台の向かいで、拳で口元を隠しかけて、隠しきれずに笑った顔。
それから、扉を出ていく背中に、次は何時に来られるかと聞いた自分の声。予定はもう決まっていたのに。
「……仕事が、進んだから」
リディアは言いかけた。
「読めなかったところが埋まって、試験もうまくいって。だから、嬉しかったんだと思う。一緒に仕事をして、それで」
言葉が続かなかった。
嘘ではなかった。仕事が進んだのは嬉しかった。けれど、それで全部説明したことにはならない気がした。
ミレイユは何も言わなかった。続きを促しもしなかった。葡萄の皿を少しリディアの方へ押して、自分の杯に口をつけた。待っている顔だった。
リディアは杯を卓に置いた。
「……また会いたい、とは思う」
小さな声になった。
「次の作業日が来るのが、待ち遠しい。それは、言える」
「うん」
「でも、それで何を許したことになるのか、分からないの。全部じゃない。許してないことも、まだある。それなのに、また会いたいって思うのは」
その先は、やはり言えなかった。
ミレイユのことは信じている。けれど十年のことは話せない。前の人生の食卓も、雨の夜も、十年目の建国祭も。話せないことの上で、許すとか許さないとか言っても、ミレイユには何の話か分からないだろう。
「それでいいんじゃない」
ミレイユが言った。
「会いたいのと、許したのは、別の話でしょう。一緒の箱に入れなくても」
ミレイユは葡萄の皿を指でつついた。
「それに、待ち遠しいって顔に書いてあるわよ。あなた、さっきから葡萄に一度も手を伸ばしてないもの」
リディアは皿を見た。言われるまで、手をつけていないことにも気づかなかった。慌てて一粒摘んで口に入れると、ミレイユが声を立てて笑った。
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帰りは、ミレイユの馬車で院まで送ってもらった。
研究室の棟には、廊下の灯りだけが残っていた。合鍵で扉を開け、作業台の脇に置いたままの鞄を取る。誰もいない部屋は、昼よりずっと広く見えた。
リディアは作業台の自分の席に座った。灯りを一つだけ点ける。
向かいの椅子は、空いていた。
鞄から冊子を出した。前の人生の欄。今世の裏付けの欄。推測の欄。本人の言の欄。これまで作ってきた欄は、どれも誰かのことを確かめるためのものだった。夫が何をしたか。何をしなかったか。それが本当か。
新しい頁を開いた。
一番上に、欄の名前を書いた。自分の気持ち。
その下に、ペン先を置いた。
今の彼に惹かれている。
書いてから、リディアはしばらくその一行を見ていた。
誰かを確かめるための行ではなかった。この冊子で初めて、自分の気持ちを、証明しないまま置いた行だった。
続けて、理由を書こうとした。
茶を選び直したから。研究室の決まりに従ったから。見ていたと言ったから。笑った顔を見たから。
ペン先が紙の上で止まった。
どれも本当だった。けれど、どれを書いても、さっきの一行が小さくなる気がした。
十年のことは、まだ許していない。見ていたと言われても、見えなかった十年は戻ってこない。怒りも、悔しさも、この冊子の別の欄にちゃんと残っている。
それでも、この一行は消さなかった。
リディアはペンを置き、その一行だけを残して冊子を閉じた。
灯りを消す前に、もう一度だけ向かいの空いた椅子を見た。二日後の昼の鐘のあと、そこには彼が座る。




