第五十三話 見ていた
三日後の午後、作業台の上には北の遺跡の末尾の写しが広げてあった。
残す術式の最後の数行と、術式ではない一行。北の入口で自分が写した頁だ。地下の拓本を埋める作業が一段落したので、残っている欠損をもう一度見直そうと、ユリウスが言い出した。
「閉じる項が分かったから、末尾の数行の線の役目も少しは読めるかと思ったんだけど」
ユリウスは写しの上に、自分の帳面の構造図を重ねた。
「術式の線の方は、閉じたあとの渡しかけで終わってる。末尾の数行は、渡しかけの最後の念押しみたいなものだね。構造としては、もう足りてる」
「残るのは、この一行だけです」
リディアは術式ではない一行を指した。
形の分かる字は、相変わらず三つしかなかった。「次」とも「後」とも読める字と、小さな添え字。終わり近くの、人に似た字。
アレクシスは向かいの席で、黙って写しを見ていた。今日は持ってきた資料がない。前回の作業用の写しに実測図の印を写し間違えていないか、確かめに来ただけのはずだった。
リディアは写しを灯りの下へ寄せた。
末尾の数行は、自分の写した線まで揺れている。深いところと浅いところ。一度刻んで、すぐ脇にもう一度刻み直した跡。それまでの整った線とは、まるで手が違うように見えた。
「北で写した時から、気になっていたんです」
リディアは言った。
「ここまでの線は、深さが揃っています。急いでも、迷ってもいない。でも最後の数行と、この一行だけが乱れている。刻み直しが多くて、線が途中で止まって、また始まっている」
指で揺れた線をなぞりかけて、紙から指を離した。
「泣きながら書いたように、見えます」
言ってから、帳面の推測の欄に書いた。末尾の乱れ、泣きながら刻んだように見える。推測。根拠、線の深さの不揃いと刻み直しの多さのみ。
アレクシスは写しから目を上げなかった。
長いこと、末尾の一行を見ていた。左の手が作業台の縁で一度握られて、ゆっくり開いた。
「読めるのか」
低い声だった。
「まだ読めません。三つの字の形が分かるだけです」
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。
リディアは彼の顔を見ていた。目元が少しだけ強張っているように見えた。
ユリウスが写しを丸めながら言った。
「推測の欄なら、それでいいと思う。読めない一行に、書いた人の気持ちまで決めちゃうと、あとで読めた時に引っ張られるから」
「推測の欄から出しません」
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片づけが終わると、ユリウスは資料庫へ写しを戻しに行った。バルドが立会いの帳面を閉じる。
廊下へ出たところで、リディアはアレクシスを呼び止めた。
「面会室を、少しお借りしてもいいですか。研究の話ではありません」
アレクシスは頷いた。
面会室には誰もいなかった。卓を挟んで座る。窓の外は、まだ明るかった。
リディアは鞄から冊子を出した。前の人生の記憶の欄。研究室の帳面とは別の、自分だけの冊子だ。
「今日は、一つだけ聞きたいんです」
アレクシスはこちらを見た。
「十年、あなたは私を見ませんでした。食堂で。夜会で。廊下ですれ違う時も。私が話しかけると、あなたは少し離れたところを見て答えました。ずっと、そう思っていました」
声が震えないように、ゆっくり話した。
「見なかったのは、なぜですか」
アレクシスはすぐには答えなかった。
卓の上で組んだ自分の指を見ていた。それから、顔を上げた。
「見ていた」
リディアは息を止めた。
「見ていた。君が気づかないところから。食堂の前の廊下で。夜会の柱の陰で。庭に出ている君を、二階の窓から」
声は低く、平らだった。言い訳の調子ではなかった。
「だが、君に伝わるようなことは、何もしなかった。声をかけなかった。隣に立たなかった。見ていると、分かるようにはしなかった」
「なぜ」
「……それは、まだ言えない」
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リディアは冊子を開いたまま、しばらく黙っていた。
見ていた。
聞きたかった言葉のはずだった。十年、欲しかった答えのはずだった。けれど胸に落ちてきたのは、安堵だけではなかった。
「見ていた、だけでは足りません」
自分の声が、思ったより強く出た。
「私には見えませんでした。十年、一度も。見ていたと今言われても、あの十年の私は、見られていないと思って過ごしました。それは変わりません」
アレクシスは目を伏せなかった。
「分かっている」
「これからのことを言います」
リディアは冊子の上に手を置いた。
「見ているなら、見ていると分かるようにしてください。茶を選び直してくれた時のように。何時に来るか、答えてくれた時のように。言えないことがあるなら、言えないと言ってください。黙って、遠くから見ているだけにはしないでください」
アレクシスは長いあいだ黙っていた。
それから、頷いた。
「分かった。言えないことは、言えないと言う。黙って離れることは、しない」
リディアはペンを取った。前の人生の欄に、見ていた、と彼の言葉を書いた。
その横に、自分の字で足した。見えなかった。
二つの行は、同じ十年のことだった。




