第五十二話 引いた手
約束どおり、アレクシスは昼の鐘のあとに来た。鞄には前回と同じ拓本と実測図が入っていた。
拓本そのものには何も書き込まない。ニコが写した作業用の写しの上で、白く抜けたところを北の写しと東の記録から一つずつ埋める作業になった。埋められるところと、埋められないところを分ける。埋めたところには、どの資料から借りた線かを必ず書き添える。
夕方近くになって、ユリウスが隣の部屋へ移った。ニコと二人で、一昨日の皿の試験を条件を変えてもう一度流すという。隣室の扉は半分開いていて、ニコが数を数える声が時々聞こえてきた。バルドは窓際の机で、立会いの帳面に今日の閲覧を書き足している。
作業台には、リディアとアレクシスだけが残った。
窓の外の光が橙に変わり始めていた。ニコが灯りを一つ置いていった。
「ここの白いところは、北の写しの三行目と同じ形に見えます」
リディアは拓本の一か所を指で示した。
「でも、北のこの線は少し短い。地下の方が長かったのかもしれません。埋めずに、北では短い、とだけ書きます」
「分かった」
アレクシスは自分の前の実測図に、鉛筆で小さく印を付けた。拓本のどの位置が壁のどこに当たるのか、前回から彼が図に書き込んでくれている。
次の行へ進もうとして、リディアは作業台の真ん中に置いた北の写しへ手を伸ばした。
向かいからも手が伸びていた。
指先が触れた。
紙の端の上で、彼の指の背に、自分の指の腹が当たった。温かかった。
アレクシスの手が先に引いた。
速かった。弾かれたように、手の甲が作業台の縁まで戻った。
「すまない」
リディアも手を引っ込めた。
引っ込めてから、胸の奥が冷たくなった。
触れられたくなかったのか。
前の人生の十年が、一度に戻ってきそうになった。並んで歩いた時の、半歩の隙間。触れずに済む距離を、彼はいつも測っていた。
北の写しは、まだ二人のあいだにあった。どちらも取らなかった。
リディアは顔を上げた。
アレクシスは作業台の縁に置いた自分の手を見ていた。その手が震えていた。指先から手首まで、細かく。彼はもう片方の手で、それを押さえようとしていた。
拒まれたのだ、とは言い切れなかった。
触れられて嫌なだけなら、手はこんなふうに震えるだろうか。
「……作業を、続けられますか」
リディアは聞いた。
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アレクシスはすぐには答えなかった。
押さえていた手を、ゆっくりと離した。震えは少し収まっていたが、止まってはいなかった。
「手が」
彼は言いかけて、止めた。
「なぜ震えるのか、うまく言えない。君が悪いのではない。それだけは言える」
リディアは膝の上で、自分の指を握った。さっき触れた指先に、まだ温かさが残っていた。
「席を外したいですか。今日はここまでにしても、構いません。続きは次の作業日にできます」
「残る」
答えは早かった。
アレクシスは顔を上げた。
「残る。続けたい」
隣の部屋から、ニコの数える声がした。十八、十九、二十。それからユリウスが、出た、と言った。
窓際の椅子が軋んだ。バルドが立ち上がり、棚から灯りをもう一つ取って、作業台の端に置いた。何も言わずに窓際へ戻り、また帳面に目を落とした。
手元が明るくなった。
リディアは息を一つ吐いた。
前の人生なら、ここで先に席を立っていたのは自分だった。気まずさを抱えたまま部屋へ戻り、翌朝には何もなかった顔をする。それを十年続けた。
残る、と言ってもらえた。それで安心したのは本当だった。けれど、さっき引かれた手の速さも、本当だった。どちらか一つにはならなかった。
「では、次の行です」
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リディアは北の写しを自分の方へ引き寄せ、三行目を開いた。
拓本の白いところと見比べる。線の向きを確かめて、帳面に書く。北の写し三行目と同形。地下では長さ不明。補わない。
次の箇所には、東の層分離の記録が要った。束はアレクシスの側にあった。
リディアは手を伸ばしかけて、やめた。
代わりに、自分の帳面を作業台の真ん中へ置いた。二人のちょうどあいだに。
「東の記録の、二本目の頁をお願いします。ここへ」
アレクシスは一瞬、作業台の真ん中を見た。それから束をめくり、二本目の頁を抜いて、帳面の横に置いた。リディアの手の届くところに。彼の手からは少し離れたところに。
「ありがとうございます」
リディアは頁を手元へ引いた。
椅子は動かさなかった。作業台の幅の分だけ、向かいに彼がいる。その距離のままで、次の線を読んだ。
「ここ、地下の拓本では、閉じる線が一度途切れています。東の二本目には途切れがない。拓本が抜けているだけだと思いますが、壁のこの位置に何か当たっていませんでしたか。梁の金具や、石の継ぎ目が」
聞いてから、リディアは待った。
アレクシスは実測図を引き寄せ、指で位置を辿った。震えはもう、見ても分からないくらいになっていた。
「……継ぎ目がある。梁の受けを打った跡だ。工兵の図に印がある」
「では、拓本が抜けた理由の候補にはなります。線が続いていたかどうかは、まだ分かりません」
リディアは作業用の写しの余白に、継ぎ目の位置と、補わない、とを書いた。彼の言った位置も、そのまま書き写した。
夕方の鐘が鳴った。隣室から、ユリウスが今日の結果を読み上げる声がした。
アレクシスは鞄に図を戻しながら、一度だけ、作業台の縁に置いていた自分の手を見た。
引いた手は、帰るためには動かなかった。




