第五十一話 笑った人
翌日の昼過ぎ、ユリウスが帳面を作業台に叩きつけるように置いた。
「閉じる項があるなら、北にもあるはずだよね。北の写しの溜める構造は、地下とよく似てる。でも北の写しには、閉じる線がない」
アレクシスは昨日と同じ向かいの席にいた。今日は拓本ではなく、地下の通路の実測図を持ってきていた。バルドは窓際の机で、立会いの帳面を開いている。
「あります」
リディアは立ち上がった。
「北の写しの、ここです」
兄から借りた北の遺跡の写しを広げる。溜めて写し取る構造の先、折り返しの項。
「北では、閉じる線が独立していません。折り返しの中に畳まれています。折り返しで一度内側へ曲がって、形の周りを回ってから外へ出る。地下では二つに分かれていたものが、北では一つの項になっているんです」
「それ、君の読み?」
「読みだけではありません」
リディアは東の遺跡の層分離の記録を出した。ユリウス自身の字で、五本の線の条件が並んでいる。
「東の壁の二本目と四本目です。分かれ目のあとに、同じ回り方の線があります。北の写しと同じ畳み方です。それから、こちら」
自分の採録の束から、北の遺跡の入口の壁を写した頁を抜く。
「北の入口で私たちが写した頁です。兄の写しは古い調査のもので、折り返しの細い線が一部省かれていました。私たちの写しには残っています。三つ並べると、畳まれた閉じる項は三か所とも同じ位置です」
最後に、研究室の作業記録を開いた。報告会の前に流した、三組の皿の頁。
「それから、これです。折り返しを一つ手前にずらした皿には、何も写りませんでした。折り返しの中で閉じているなら、位置がずれれば閉じきれない。あの時の結果にも、説明がつきます」
四つの資料を並べて、リディアは顔を上げた。
ユリウスが一枚ずつ見比べていた。口を開いて、閉じた。
「ほら」
言ってから、自分の声が弾んでいるのが分かった。顎が少し上がっている。勝った、と顔に書いてある気がした。
向かいで、小さな音がした。
アレクシスが笑っていた。
声は低く、短かった。口元を拳で隠しかけて、隠しきれずに肩が一度だけ揺れた。目が細くなっていた。
リディアは説明の続きを忘れた。
折り返しの項を指で押さえたまま、彼を見ていた。この人は、こういう顔で笑うのか。
「……続けてくれ」
アレクシスが言った。もう笑ってはいなかったが、目元にまだ少し残っていた。
「はい。ええと、北では閉じる線が独立していなくて、折り返しの中に――」
「そこ、もう聞いた」
ユリウスが言った。
リディアは頁を一枚戻した。戻してから、戻す必要はなかったと気づいた。もう一度、正しい頁へ進める。耳が熱かった。
「三か所とも同じ位置、というところからです」
「うん。そこからお願い」
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午後の半ばに、ニコが比較の試験の準備を始めた。
閉じる項の有無で、写し取った形が崩れるかどうかを確かめる。地下の構造と同じ線を二組、皿に描く。片方には閉じる項を入れ、片方には入れない。
ニコはリディアの書いた手順の紙を見ながら、墨を溶いていた。
「エルフォードさん。こっちの皿が、閉じる方でいいんですよね」
ニコが示したのは、閉じる項のない方の図だった。
リディアは手順の紙を覗き込んだ。自分の字で、二行目に「折後閉」、三行目に「閉無」と書いてある。四行目には「左、閉」とだけあった。
「……逆です。すみません。左が閉じる方で」
「左って、どっちから見て左ですか。前の試験の時は、窓側から見てました」
リディアは答えに詰まった。書いた時には、作業台の自分の席から見た左のつもりだった。
ユリウスが紙を取り上げて、眉を寄せた。
「折後閉、って何」
「折り返しのあとで閉じる、です」
「僕も読めない。君しか読めない」
アレクシスが紙を一度だけ見た。
「騎士団の指示書は、一行に一つの動作しか書かない。誰が読んでも同じことをするように」
「一行に一つ」
リディアは新しい紙を出した。皿に札を付ける。札に、閉じる項あり、なし、と書く。手順の紙には皿の位置ではなく札の名を書く。一行に一つ。略さない。
書きながら、自分の略記を見返した。「閉無」「左、閉」。項の名は略さない。院に入ってすぐ、ユリウスとニコと三人で決めたことだった。北の写しが三つ並んだのが嬉しくて、手の方が先に走っていた。
「決めたことを、自分で省いていました」
言ったら、可笑しくなった。リディアは笑いながら、古い紙に線を引いた。ニコも笑った。
試験は夕方に一度だけ流した。閉じる項のある皿は、上から別の線を流しても、写し取った形が崩れなかった。ない方の皿は、二度目に流したところで形が滲んだ。
ニコが二つの結果を帳面に書いた。札の名で。
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夕方の鐘のあと、アレクシスは実測図を鞄へ戻した。バルドが立会いの帳面に返却の印を押す。
次の作業日は、もう決まっていた。二日後。バルドが朝のうちに予定表に書き込んでいる。
リディアは鞄を抱えた彼の背に、声をかけた。
「次は、何時に来られますか」
アレクシスが振り返った。
ユリウスが帳面から顔を上げたのが、目の端に見えた。
「昼の鐘のあとなら」
「では、昼の鐘のあとに。北の写しの残りと、東の層分離の記録を揃えておきます。拓本の白く抜けたところと照らし合わせたいので」
「分かった」
アレクシスは短く頷いて、扉を出ていった。
リディアは作業台に戻り、次に使う写しの束を棚から出して、端を揃えた。北の写しの残り、東の記録、地下の構造図。必要なものだった。全部、本当に要る。
束を揃え終えてから、扉の方をもう一度見た。
閉まった扉には、何も変わったところはなかった。
次の作業日に、彼が来る時刻まで決まった。




