第五話 断った代償
父の机の上に公爵家の封筒が一通載っていた。
婚約を断った翌日の昼、リディアは書斎に呼ばれた。父は机の向こうに座り、兄は窓辺に立っている。封筒はリディアが引き出しにしまったものではない。今朝、家令から改めて届いた詫び状だった。父が黙ってそれをリディアの方へ押し出した。縁談の件は令嬢の意向を尊重して取り下げる、と短く書いてある。
「座りなさい」
父の声に昨日の赤みは残っていなかった。眠れなかったのか、目の下が少し暗い。
「公爵様がなかったことにと仰った以上、私から蒸し返しはしない。お前がどう言おうと、あの方に頭を下げてもう一度、などということもしない」
リディアは膝の上で手を握った。叱られると思って来た。叱られる言葉の順番まで考えてきた。
「だが」
父は封筒を脇へ寄せて、代わりに一枚の紙を置いた。兄が書いた魔導院の費用の見積もりだった。入院の試験料、書物代、院へ通う馬車の手当て。
「研究をするのに金がかかることは分かっているな。家で本を読むのとは違う。うちが出す」
「……ありがとうございます」
「条件がある」
父は見積もりの端を指で叩いた。
「正式に入院しなさい。聴講や見学ではなく、院の所属として名簿に名が載る形でだ。それができれば、お前の言う研究がただの気まぐれではないと、私から親戚にも言える」
「落ちたら」
「落ちたら、そのときに次をどうするか三人で話す。縁談を押しつけるとは言わん。だが家にこもって写本を読むだけの暮らしを、いつまでも支えるつもりもない」
リディアは見積もりを見た。父の字ではなく兄の字で、細かく数字が並んでいる。
前世の父は、嫁ぐ娘に何も条件をつけなかった。公爵家に嫁げば何も心配はいらないと、そればかり言っていた。条件をつけるのは、娘がこれから自分で歩く道に金を出すからだ。
「分かりました。試験に通ります」
父はうなずき、それきり封筒も見積もりも片づけた。書斎を出る時、父の声が背中にかかった。
「昨日の客間で、お前があれほど話すとは思わなかった」
振り向くと、父はもう書簡の束に目を落としていた。
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廊下で兄が追いついてきた。
「父上にしては上出来だ。もっと怒鳴るかと思った」
「兄様が見積もりを書いてくださったのね」
「頼まれたからな。あれがないと父上は話を始められない」
兄は歩きながら言った。
「試験のことは心配するな。魔導院なら私がいる。試験官にも知った顔が多い。願書は私が出しておこう。推薦の一筆も――」
「願書は自分で出します」
兄が足を止めた。
「推薦も要りません。兄様の妹だから通った、と言われたくないの。説明が要るなら、それも私がします」
兄はしばらくリディアの顔を見ていた。それから肩をすくめて笑った。
「昨日から、妹がよく喋る」
「迷惑ですか」
「いや。魔導院なら安心だと思っているのは本当だよ。私の目の届くところにいてくれれば、それでいい」
兄は書斎へ戻っていった。リディアは願書の書き方を要項で確かめようと、自分の部屋へ足を向けた。
玄関広間の方が騒がしくなったのは、その時だった。
執事の声に若い女の声が重なる。執事が何か言い終わる前に、その声が階段を駆け上がってきた。
「リディア! いるんでしょう、リディア!」
ミレイユ・ローデンが帽子を手に持ったまま廊下の角から現れた。走ってきたのか、頬が赤い。
「聞いたわよ。公爵様を断ったって。母が朝から三回その話をしたわ。本当なの」
「本当よ」
ミレイユは目を丸くして、それから声を立てて笑った。
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庭の生け垣の間の小道を二人で歩いた。
「ここ、昔はもっと低かったわよね。二人で飛び越えて、庭師に叱られて」
「あなたが飛んで、私が引っかかったのよ」
ミレイユは生け垣の葉を一枚摘んで指でくるくる回した。
前世ではこの小道を二人で歩いた記憶が十七の年で途切れている。婚約が決まってから公爵夫人になる稽古に追われ、ミレイユの明るい手紙に返事を短くした。短い返事が遅れるようになり、最後の一通に返事を書いたかどうか、リディアは覚えていない。
「ミレイユ。私、研究者になるの。魔導院の入院試験を受ける」
「あなたらしい」
ミレイユはあっさり言った。
「昔から研究の話をする時だけ早口だったもの。お兄様の本の話になると、私が何を言っても聞いてなくて」
「それと、もう一つ」
リディアは足を止めた。
「院に入ったら忙しくなると思う。でも、あなたへの返事は遅らせない。書くことがなかったら、書くことがないって書くわ」
ミレイユは葉を回す手を止めた。
「なあに、急に。私、そんなに返事を待たされたことあった?」
「これからの話よ」
ミレイユは首を傾げ、少し考えてから、リディアの腕に自分の腕を絡めた。
「じゃあ私も手伝う。術式のことは分からないけど、問題を読み上げるくらいはできるわ。あなた、本を読むと食事を忘れるでしょう。お菓子を持ってきて、あなたが答えたら一つずつあげる」
「子供みたい」
「子供の頃もそうしたのよ。覚えてない?」
覚えていた。書庫の床に座ったリディアの口に、ミレイユが焼き菓子を押し込んだ。十年の間、思い出しもしなかった。
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夕の鐘のあと、リディアは自室の机で要項を最初から読み直した。
筆記は古代文字の読解と術式の説明。採点の欄には答えだけでなく根拠の記述を見ると書いてある。根拠から書けと言った兄の言葉どおりだった。実技は配られた標準の術式図を写して小さな器具を動かし、安定させるまでを見る。
その下に細かい字で安全の手順が続いていた。
器具に異常があれば、受験者は手を挙げて申し出ること。受験者が自分の判断で試験場の供給を止めてはならないこと。試験場全体の供給を止める権限は試験主任にあること。申し出による中断は、それだけを理由に減点しないこと。
リディアは最後の一行を指でなぞった。前世で兄の資料を盗み読んでいた頃、こういう欄は読み飛ばしていた。
頁をめくる。試験当日の段取りと、受験者の控え室、昼の休憩。
最後の欄に警備の項があった。
当日の院内の警備は騎士団が担う。責任者の欄に名前が一つ書いてある。
騎士団長 アレクシス・ヴァルディエ。
リディアは要項を机に伏せた。窓の外はもう暗く、硝子に自分の顔が映っている。
研究の門にも、断った相手が立っていた。




