第四話 あなたとは結婚しません
昼の鐘のあと、伯爵邸の客間の床に光が四角く落ちていた。
公爵家からの返事は早かった。父が使いを出した翌日には日取りが決まり、その二日後の今日、客間の向かいの長椅子に公爵家の家令が座っている。白髪の痩せた男で、膝の上に革の書類挟みを置いていた。
その隣に公爵本人がいた。
前世の打診の場に彼は来なかった。家令が一人で来て父と日取りを決め、リディアは隣の部屋でそれを聞いていた。話がまとまってから呼ばれて、家令に頭を下げただけだった。
彼は窓を背にして座り、膝の上に手を置いている。黒い上着に、今日も手袋をしていた。こちら側には父とリディアが並び、兄は約束どおりリディアの隣の椅子に座っていた。
「娘がどうしても自分の口からと申しましてな」
父が上機嫌で言った。
「夜会では失礼をいたしましたが、あれも緊張していたのでしょう。日取りのほうは、春までには整えたいと存じますが」
「公爵家としては、令嬢のお気持ちを第一と考えております」
家令が穏やかに言って、書類挟みを開いた。
「そのうえで両家のご都合がよろしければ、婚約の儀の候補をいくつか」
「父様」
父が振り向いた。
リディアは膝の上で指を組んでいた。組んだ指の関節が白い。
前世の自分なら、ここで黙っていただろう。家令が日取りを読み上げるのを聞いて、最後に「よろしくお願いいたします」と頭を下げただろう。それが正しいと思っていた。正しいことをしていれば、いつか報われると思っていた。
リディアは公爵を見た。言うべき相手は父ではない。
「このお話は、お受けできません。私はあなたと結婚しません」
客間が静かになった。
父の口が開いたまま止まった。家令が書類挟みの上で手を止めた。公爵の表情は動かなかった。眉も口の端も、膝の上の手も、夜会の時と同じだった。
「リディア、お前は何を」
父の声が裏返った。
「公爵様の前で、何を言っているのか分かっているのか」
「分かっています。理由を申し上げます」
声は思ったより落ち着いていた。書庫で何度も口の中で繰り返した順番が、今度は崩れなかった。
「私は王立魔導院で古代術式の研究をしたいと思っています。入院の試験を受けるつもりです。院に入れば、何年も研究室と遺跡を行き来することになります。公爵家の奥方の務めと両立できるとは思えません。どちらかを片手間にするなら、どちらにも失礼です」
「研究だと。そんなものは嫁いでからでも」
「嫁いでからでは、できませんでした」
言ってしまってから、リディアは唇を結んだ。父には通じない言い方だった。父は眉を寄せて、言葉の意味を探す顔をした。
「父上、妹は」
兄が口を開いた。身を乗り出しかけている。
「兄様」
リディアは兄の方を見ずに言った。
「私が話すと、言いました」
兄の体が止まった。それから椅子の背へ戻った。
リディアは父に向き直った。
「試験に落ちたら、そのときにまた考えます。でも受ける前から諦めて、別の方の家に入ることはしません。これは私の決めたことです」
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父は顔を赤くして口を開いたが、言葉は続かなかった。
公爵が父より先に口を開いた。視線はリディアに置いたままだった。
「承知した」
家令が公爵の横顔を見た。父も見た。リディアも見た。
「令嬢の意思は分かった。この話は、なかったことにしていただきたい。伯爵、無理を通すつもりはない」
「し、しかし閣下、娘はまだ若く」
「本人がここまで言った」
それで終わりだった。公爵はそれ以上何も言わなかった。理由を問わず、家の名も持ち出さなかった。
父が立ち上がり、窓際へ歩いていって背を向けた。兄が席を立ってその隣へ行き、低い声で何か言っている。家令は書類挟みを閉じて膝の上で揃え、詫びるように公爵へ目を向けた。
リディアは公爵を見ていた。
反対しない。問い詰めもしない。用意してきた言葉はまだいくつも残っていた。家の名を持ち出されたら、どこの家の名でも私の意思は変わらないと言う。父が許さなければ兄と二人で頭を下げる。どれも要らなかった。
やはり、断られても惜しくない縁談だったのだ。
そう確かめても、胸の底に小さな空洞が残った。引き止めてほしかったのではない。それなのに、何一つ反対されないことが寂しかった。
「……初めてだ」
低い声だった。
リディアは顔を上げた。
彼はもうこちらを見ていなかった。横の壁のどこでもないところに目を向けて、もう一度口を開きかけ、閉じた。
初めて。
断られたのが初めてなのだろう。公爵家の当主に、伯爵家の娘が面と向かって否と言った。そういうことは、きっと今までなかった。
傷ついたのはこの人の名前の方だ、とリディアは思った。
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玄関まで見送るのが礼儀だった。
廊下を歩く。家令と父が前を行き、その後ろを公爵が、さらに後ろをリディアと兄が歩いた。黒い上着の背中は、前世の公爵邸の廊下で何度も遠ざかった背中と同じ幅をしている。
玄関広間の手前で、その背中が止まった。
父が気づかずに二歩先へ行き、振り向いた。公爵は半身だけこちらへ向けてリディアを見た。
「研究をするなら」
リディアは息を止めた。
「王立魔導院以外にしてほしい」
広間の高い窓から、午後の光が斜めに入っている。
「なぜですか」
答えはなかった。
彼はリディアを見ていた。客間で壁を見ていた時とも、夜会でこちらを見ていた時とも違う目だった。手袋の指が一度だけ握り込まれて、ほどけた。
「理由をお聞かせいただけないなら、従えません」
「……君の研究を止めたいわけではない。ただ、魔導院以外に」
「古代術式の研究室があるのは魔導院です」
兄が後ろで小さく息を吸う気配がした。父は扉の前で固まっている。
「試験は受けます。研究する場所は、私が決めます」
彼は少しのあいだ黙っていた。それから短く頷いた。承知したとは言わなかった。
前を向いて、父が開けた扉から出ていく。家令が一礼して続いた。車寄せで馬が鳴いた。
リディアは玄関広間に立っていた。
結婚を断った時、彼は一度で引き下がった。
魔導院のことは、二度言った。




