第三話 知らない目
リディアは父の腕に手を添えて、大広間の入口の段を下りた。
王宮の夜会は夕の鐘が鳴り終わってから始まる。天井の燭台にはもう火が入り、磨いた床に灯りが幾重にも映っていた。
同じだった。
楽団は西の壁際にいる。飲み物の卓は柱の陰に並び、王族の席は北の段の上で、まだ空いている。窓際には年配の夫人たちが集まり、若い令嬢たちは中央の少し手前で輪を作っている。十年前に一度見た配置と、何も違わない。
「顔を上げなさい。今夜は公爵様もいらっしゃるのだから」
父が小声で言った。封書は今も引き出しの中にある。
夜会の前の晩、リディアは父の書斎で話した。婚約を受けたくないこと、魔導院の試験を受けたいこと。父は最後まで聞いてから笑った。嫁ぐ前の娘はみな一度はそう言う、試験は兄と好きに準備すればいい、だが縁談は別の話だ、と。それきり父は、引き出しの封書を照れだと思うことに決めたようだった。
輪の中から笑い声が上がった。
高くて、よく通る声だった。ローデン侯爵家のミレイユが誰かの肩を叩いている。幼い頃から互いの家の庭を行き来した友人で、前世ではこの夜会のあとから少しずつ疎遠になった。手紙の返事を遅らせたのはリディアの方だった。
ミレイユがこちらに気づいて、扇の陰で小さく手を振った。リディアは会釈だけを返した。今夜は用が済んだら帰る。そう決めて来ていた。
父が知人に呼び止められ、リディアは一人で飲み物の卓の脇に立った。
広間の音が一度、低くなった。
入口の近くから順に話し声が少しずつ小さくなっていく。誰かが入ってきたのだと、振り向かなくても分かった。振り向くつもりはなかったのに、首が先に動いた。
黒い礼装の長身が従者を一人連れて入口の段の上に立っている。アレクシス・ヴァルディエ。二十三の公爵はリディアの記憶にある顔より若く、頬の線が硬かった。
白い光が重なった。
敷石の継ぎ目の青。流れに逆らって走ってくる黒い制服。崩れた顔と素手。膝から力が抜けかけて、リディアは卓の縁に指をかけた。グラスが小さく鳴る。
死ぬ前に見た顔だから、体が覚えているだけだ。リディアはグラスを一つ取って、飲まずに持った。
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挨拶は避けられなかった。
王族の入場のあと、戻ってきた父がリディアの腕を取った。いくつかの家と言葉を交わし、三つ目の輪の外に彼がいた。
「ヴァルディエ公爵閣下。娘のリディアでございます」
父の声が少し上ずっている。リディアは裾をつまんで礼をした。
「エルフォード伯爵令嬢」
低い声だった。彼が右手を差し出し、リディアが指先を預けると、軽く身を屈めて左手を胸に当てた。その左の手袋の縁と袖口の間に、白く引きつれた細い痕がのぞいた。指先が離れると、袖が下りて見えなくなった。
前世の十年で、あの手首を見たことがあっただろうか。思い出せなかった。夫の手袋を外した手を、そもそもほとんど見ていない。
型どおりの言葉が続いた。父が王都の警備の労をねぎらい、彼が短く礼を返す。リディアは彼の胸元のボタンを見ていた。前世でもこうして、父の隣でボタンを見ていた気がする。
「顔色が悪い」
ボタンから目を上げた。
彼がこちらを見ていた。父ではなく、リディアを。
「眠れていないのか」
父が言葉を止めた。周りの輪の話し声が途切れ、いくつかの顔がこちらを向いた。
前世では一度も言われなかった種類の言葉だった。顔色も眠りも、彼が尋ねたことはない。尋ねられないことに、リディアは十年かけて慣れたのだ。
慣れたはずのところに、言葉がそのまま落ちてきた。
胸の奥が一度だけ揺れた。揺れたことが嫌だった。十年前の自分なら、この一言を何日も抱えて眠っただろう。抱えたまま嫁いで、二度と同じ言葉が来ない十年を待っただろう。
「お気遣いありがとうございます」
声は平らに出た。
「少し体調が優れませんので、今夜はこれで失礼いたします」
「リディア」
父が小声で言う。楽団が最初の舞曲の前奏を始めていた。一曲目は公爵と踊るものと、父も周りの輪も待っている顔をしていた。
リディアはもう一度礼をした。
彼は何も言わなかった。引き止めもせず、手も差し出さなかった。ただ頷いた。それでリディアは背を向けることができた。
輪の外でミレイユが目を丸くしているのが見えた。リディアは扇を少し上げて、ごめんなさいと口の形だけで言った。ミレイユは首を傾げ、それから扇の陰で笑って、行きなさいというふうに手を払った。
広間を出るまで、背中に視線を感じていた。振り向かなかった。
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馬車は王宮の車寄せから夜の通りへ出た。
父は広間に残った。迎えの馬車には侍女が待っていて、リディアの顔を見るなり膝掛けを広げた。
通りの角を曲がった時、窓の外に影が並んだ。
騎馬だった。二騎が馬車から少し離れて、同じ速さでついてくる。灯りの下を通る時、鞍の脇の布に紋が見えた。翼を広げた鷲。
御者台との間の小窓を叩いた。
「後ろの騎馬は」
「王宮を出る時に、あちらの騎士の方が。公爵様のご指示で、お屋敷までお供すると」
リディアは小窓を閉めて、膝掛けの下で手を握った。
退席を選んだのはリディアだった。彼は追わなかった。追わないまま人をつけた。誰もリディアに尋ねなかった。帰りに騎士をつけることは、リディアを通さず御者にだけ伝えられていた。
公爵邸でもそうだった。外出の予定は家令を通して夫に届き、戻れば馬車の扉を開けるのはいつも知らない騎士だった。守られていたのかもしれない。けれど一度も、それでいいかと聞かれたことはなかった。
蹄の音が車輪の音に重なって、屋敷の門まで離れなかった。
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父が帰ってきたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
玄関広間の灯りの下で、リディアは父を待っていた。父は外套を執事に渡しながら、リディアを見て眉を寄せた。
「まだ起きていたのか。体はどうした」
「父様にお願いがあります」
父の手が止まった。
「公爵家へのお返事を正式な席でさせてください。手紙ではなく、あちらの方にも来ていただいて。私の口から申し上げます」
書斎で話したことは、父の中では娘の気の迷いとして片づけられた。家の中で何度言っても同じだろう。あの手紙に曖昧な返事を書けば、文面は父と家令の間で整えられ、いつの間にか受けたことになる。前世の自分はそうやって隣の部屋で日取りが決まるのを聞いていた。公爵家の人の前で自分の口から言えば、それはもう家の中の話では済まない。
父の顔がゆっくりほどけた。
「そうか。そうか、お前の口から」
父は外套を脱いだ手でリディアの肩を叩いた。
「夜会で逃げ帰ったと聞いた時はどうなるかと思ったが。分かった。すぐに公爵家へ使いを出そう」
「父様。書斎でお話ししたことは、変わっていません」
「分かっている。あの晩より、ずっといい顔をしている。今夜は早く休みなさい」
父は鼻歌まじりに階段を上がっていった。執事が外套を抱えたまま、何か言いたげにリディアを見て、言わずに下がった。
リディアは灯りの下に一人で残った。
眠れていないのか、と彼は言った。
それでも、受けない。
その席で何を言うかは、もう決まっていた。




