第二話 私のための進路
食堂に下りると、父がもう席についていた。
「おはよう。顔色がいいな」
父が書簡の束から顔を上げた。リディアの覚えている父はもっと痩せていた。今は頬に肉があり、声に張りがある。
兄が遅れて入ってきて、向かいの席に座った。
「寝坊しました。昨日は遅くまで資料を読んでいて」
セドリックは寝癖を手で押さえながらパンに手を伸ばす。向かいに兄がいて、その横に父がいる。湯気の立つ皿が三つ並んでいた。
向かいの席に人がいる。
公爵邸の食卓は長かった。端から端まで使用人が皿を運ぶのに十歩はかかった。向かいの席には毎朝食器が並べられ、毎朝そのまま下げられた。夫は夜明け前に騎士団へ出ていくか、夜更けに戻って自室で食べた。最初の年は理由を考えた。二年目からは考えなかった。食器を並べないでほしいと家令に頼んだのは三年目で、それからは長い卓の端にリディアの皿だけが置かれるようになった。
「どうした。食べないのか」
兄に言われて、リディアはスプーンを持った。スープは温かかった。実家のスープはいつも塩が足りない。今朝も足りなかった。
「公爵家から封書が来たそうだな」
父が言った。声がもう弾んでいる。
「部屋に置いてきました。まだ読んでいません」
「読んでいない?」
「後で読みます」
父は何か言いかけて、兄の方を見た。兄はパンをちぎっていて、顔を上げなかった。
「まあいい。照れているのだろう。用は一つしかないのだから」
父は書簡の束を揃え、その中から一通を抜いた。
「そうだ。王宮から夜会の招待が来ている。数日後だ。公爵様もお出になるそうだから、お前も出なさい」
「はい」
その夜会も覚えていた。前世で、リディアは公爵と初めてそこで言葉を交わした。何を話したかは覚えていない。父が隣で話し、自分は相槌を打っていただけだった。
兄が父の皿にパンを一切れ移し、父が鼻を鳴らす。昔と同じやりとりだった。昔と同じだと思うことに、まだ慣れなかった。リディアは温かいスープを最後まで飲んだ。
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朝食のあと、リディアは書庫へ行った。
奥の棚の下の段に、幼い頃に何度も引き出した写本が同じ場所にあった。革の表紙は手の脂で黒ずみ、角が丸い。遺跡の壁に刻まれた古代文字の術式を写し取った古い本だ。
机に広げて開いた。
読める。
古代文字は絵のようで絵ではない。線が折れ、重なり、一つの図の中に流れを作っている。最初の頁は水を引く術式だった。遺跡の井戸の壁に刻まれていたもので、線が三本下から上へ向かい、途中の一本が折れて外へ逃げる。逃げた一本が水の圧を外へ逃がす項だと分かる。
分かってから、リディアは手を止めた。
これは知っていたのだろうか。
十七までに兄の資料を盗み読んで覚えたことは多い。井戸の術式もその一つだったかもしれない。けれど次の頁の、見覚えのない灯りの術式でも、線を追う前に答えのほうが先に来た。この線は熱を外へ出す。この点は止めの印だ。目より先に、どこかから答えが置かれる。
前世でもそうだった。自分では勉強の成果だと思っていた。今はもう、どちらなのか分からない。
分からないまま、手が動いていた。
右手がペンを持ち、写本の余白に線と点と小さな記号を書いている。術式の流れを縮めて余白に留める、昔からの癖だった。読んだものを自分にだけ分かる形で書き留める。兄にも誰にも読めたことがない。
三行分の術式が指二本分の幅に収まっていた。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
侍女が盆を机の端に置いた。開いた写本を覗き込んで、目を細める。
「難しそうな絵ですね」
「絵じゃないの。これは灯りの術式で、ここから入った力がこの三本に分かれて、真ん中の一本だけが外へ熱を逃がすから灯りが熱くならないの。普通は二本で足りるはずなのに、どうして三本なのかはまだ分からないの。熱がよほど多い灯りだったのか、ここの止めの印と関係があるのか――」
侍女が瞬きをしていた。
リディアは口を閉じた。いま自分は一息で何文を言っただろう。
公爵邸ではこんな話し方をしたことがない。家令への指示は短く、夜会では相槌だけだった。誰かに何かを説明したくて言葉があふれたのは、いつ以来だろう。
「……ごめんなさい。早口だったわね」
「いいえ。お嬢様が楽しそうなのは久しぶりです」
侍女は笑って下がっていった。リディアは余白の記号を見下ろした。
楽しそう。
ペンを置いて両手を膝の上で握った。胸が熱かった。白い光の熱ではない。幼い頃、写本を抱えて書庫の床に座っていた時の熱だった。
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夕の鐘のあと、兄は書斎にいた。
机の上に資料が積まれている。王立魔導院の印が押された紙の束だった。兄は魔導院の研究者で、週の半分は院に詰め、残りは家で資料を読む。
「どうした」
セドリックが紙から顔を上げた。リディアは扉を閉めて机の前まで歩いた。
言うことは書庫で決めてきた。決めてきたのに、兄の顔を見ると順番が崩れた。
「公爵家の封書のことです」
「父上が騒いでいた。まだ開けていないそうだな」
「受けません」
兄は何も言わない。リディアは兄の机の角を見たまま続けた。
「私は魔導院で研究がしたいんです。古代術式を。誰かの家に入って、それを片手間に――」
「いいじゃないか」
顔を上げた。兄は笑っていた。リディアの言葉の途中に重なるほど早い返事だった。
「入院の試験がある。古代文字の筆記と実技だ。筆記はお前なら問題ない。習ったことを根拠から書く練習だけはしておけ。実技は準備がいるが、私が見てやれる」
兄は机の紙束を手で探り、一枚引き抜いてリディアの前に置いた。魔導院の入院要項だった。端が揃っていて、折り目もない。
「明日には去年の問題も揃えておく。書庫の奥にあるのは古いから」
「兄様」
「父上には私から」
「いいえ」
リディアは要項に手を置いた。
「父様には私から話します。受けない理由も、研究したい理由も。私の進路ですから」
兄は少しのあいだリディアを見ていた。それから頷いて、手を引いた。
「分かった。お前が話すなら、私は隣に座っているだけにしよう」
「ありがとう、兄様」
要項を胸に抱えて書斎を出た。扉を閉める時、兄がもう紙に顔を戻しているのが見えた。
廊下の灯りの下で、リディアは要項を広げた。筆記は古代文字の読解と術式の説明、実技は小さな術式の再現。書庫で読んだ写本の頁が、そのまま試験の欄に並んでいるように見えた。
兄の賛成は、理由を話し終えるより早かった。




