第一話 十年目の空席
リディアは隣の席の背もたれに触れないように、膝の上で手を組み直した。
王都の中央広場に昼の鐘が落ちて、建国祭の式典が始まる。貴賓席の天幕の下は日陰で、それでも石の床から熱が上がってくる。王家の旗が広場の四方で風を受け、楽の音が遠い。広場を埋めた人々の頭には、遮るもののない日が照りつけている。
隣の席は空いている。
「公爵様は警備の指揮にお立ちです。式典の間はこちらへ戻られないと」
侍女が小声で言い、リディアは頷いた。聞かなくても分かっていた。嫁いだ最初の年は空いた背もたれを何度も見た。二年目には見なくなった。十年目の今年は、そこへ夫が戻ると考えることもない。背もたれに手が触れないようにする癖だけが、体に残っていた。
「ヴァルディエ公爵夫人。公爵様は今年もお忙しいのね」
後ろの席の伯爵夫人が扇で口元を隠している。
「恐れ入ります」
毎年同じことを言われ、毎年同じ答えを返している。慣れていることに気づいて、それも通り過ぎた。
膝の上の手を見た。左の薬指に公爵家の指輪がある。内側が擦れて、指の付け根に細い痕がついていた。十七で嫁いで十年になる。席次表には「ヴァルディエ公爵夫人 リディア」とだけあった。
国王の挨拶が続く。老いた声が広場の端まで届くのは、演壇に術式が組んであるからだ。近衛の列が広場の縁を一周し、子供たちが旗を振る。毎年同じ順番で進む式典だった。
先に来たのは揺れだった。
楽の音ではない。石を通って足の裏へ上がってくる、太い弦を遠くで弾いたような低い揺れだった。侍女は顔を上げない。後ろの伯爵夫人の扇も同じ調子で動いている。
リディアは床を見た。
貴賓席の板の隙間から広場の敷石が見える。敷石の継ぎ目に細い光が走っていた。青い線が継ぎ目を一つ越え、また一つ越えて、折れながら広場の中心へ向かっている。
王都の地下には魔法網が通っている。街の灯りと水と城の結界を支える術式の束が、石の下を走っている。誰でも知っていることだが、地上から見える物ではない。継ぎ目に光が浮くのは、術式が表に出ているということだ。
リディアは目で線を追った。折れ方には規則がある。この折れ方なら次は右へ曲がり、その先で二本に分かれる。線はそのとおりに折れ、そのとおりに分かれた。
読めることそのものは嫌いではなかった。読むたびに、十七で諦めた道を思い出すのが嫌だった。だから公爵夫人になってから、自分で読む物を遠ざけてきた。それでも目に入れば読めてしまう。
線は中心へ集まっていた。流れているのではない。何かを一か所へ引き寄せる形をしている。その先で何が起きるのかまでは読めない。ただ、この形の術式が人のいる場所の真下で表に出ていてよいはずがなかった。
「立って」
侍女が目を丸くした。
「奥様」
「貴賓席の裏の通用路へ。今すぐ」
天幕の奥の幕を一枚めくれば、給仕が使う細い通路が王宮側の建物へ抜けている。階段へ向かうより早い。リディアは侍女の腕を取って立たせ、幕の方へ押した。
「奥様もご一緒に」
「すぐ行くわ。先に入って、奥まで止まらずに歩きなさい」
侍女は一度振り向いて、それから幕の向こうへ入った。足音が通路の奥へ遠ざかる。
広場で誰かが叫んだ。人々がようやく足元を見て、楽の音が止まる。近衛の号令が飛び、王家の席の周りで槍が立った。貴賓席の貴族たちが席を蹴って表の階段へ押し寄せる。後ろの伯爵夫人は扇を落とし、拾わずに行った。
リディアは幕に手をかけた。
その足元を青い線が横切った。
線は板の隙間から這い上がり、幕の裾を焼いて通路の入口の床に沿って走った。熱が顔に来る。リディアは手を引いた。入口の敷居が光で埋まっている。向こうは暗くて、侍女の姿はもう見えなかった。
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表の階段は人で塞がっていた。下りかけた人々が光に押し返されてくる。リディアは柱と手すりの間に挟まれて、広場を見下ろした。
人々が広場の縁へ走っている。外へ、光から離れる方へ、流れは一つの方向を向いていた。
その流れに逆らってくる人がいた。
黒い騎士団の制服。長身。人の肩の間に体を割り込ませ、転んだ子供を抱え上げて流れの外へ下ろし、またこちらへ来る。流れに逆らっているから遅い。それでも来る。剣は抜いていない。指揮官の肩章だけが揺れている。
アレクシス。
リディアは自分の夫の顔を遠くから見た。
崩れたことのない顔だった。玄関広間で見送った顔も、客間で二言三言を交わした顔も、年に数度の公の席で隣に立った顔も同じ一つの顔で、結婚の日にも動かなかった。
その口が大きく開いている。何かを叫んでいる。地下の音と人の悲鳴で、言葉は一つも届かない。片手がこちらへ伸びていた。手袋がない。素手だった。
リディアは手すりから身を乗り出して手を伸ばした。届く距離ではないと分かっていた。それでも腕が勝手に前へ出た。
彼の目がこちらを捉えた。知らない目だった。
光が白くなった。
音が消えて、熱が来た。
手は届かなかった。白に沈む視界の中で、リディアは一つだけ思った。
彼が走ってくるのを、初めて見た。
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リディアは目を開けて天井を見た。
白い漆喰。梁の木目。窓の布の縁がわずかに明るい。
公爵邸の寝室の天井ではない。もっと低くて、梁に小さな節がある。幼い頃、眠れない夜に数えた節だ。数えるまでもなく七つだと知っている。
左の親指が薬指の付け根を探った。何もない。もう一度探った。指輪がない。指輪の擦れた痕もない。
手を目の前に上げた。爪の形は同じなのに、手の甲の筋が浮いていない。公爵邸の庭で日に焼けた色もない。首に触れ、寝間着の袖を肘まで上げて焼けた痕を探した。何もなかった。
扉が叩かれた。
「お嬢様、お目覚めですか。お早いですね」
お嬢様。
入ってきたのは実家の侍女だった。公爵邸にはついてこなかった侍女で、手には朝の湯を張った盥を持っている。リディアの顔を見て首を傾げた。
「どうかなさいました」
「……何でもないわ」
声が高い。喉の奥で響く場所が違う。
侍女が窓の布を開けているうちに、リディアは鏡の前へ行った。頬の線が丸い。目の下に影がない。背に落ちる髪は嫁ぐ前に切りそろえていた頃の長さだった。リディアが瞬きをすると、鏡の中の娘も同じ速さで瞬きをした。
机の上に日記が開いたまま置いてあった。最後の頁の隅に自分の字で日付が書いてある。十年前の日付だった。その下には写本の続きを読んだこと、習っていない頁の意味を言い当てて、根拠を書けないなら読めたことにするなと兄に言われたことが三行だけ書いてあった。
十七歳だ。
リディアは日記を閉じて、手のひらを表紙に置いた。胸の奥だけがまだ熱い。白い光の、あの熱が残っている。
あの侍女は通路の奥まで行けただろうか。見ていない。最後に見たのは、振り向いた顔と幕の向こうの暗がりだけだった。
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髪を結い終えたところで、もう一度扉が叩かれた。
「お嬢様に封書が届いております。使いの方は返事を待たずに帰られました」
執事が銀の盆を捧げ持っていた。盆の上に厚い封筒が一通載っている。
赤い封蝋に鷲が翼を広げた紋。ヴァルディエ公爵家。
リディアは伸ばしかけた手を止めた。
厚さも、紙の色も、紋が少し右に寄って押される癖も同じだった。十年前のこの朝、同じ盆の上で見た封筒だ。あの朝はその場で封を切った。婚約の打診だった。父が喜び、兄が少し遅れて祝いを言い、リディアは震える手で返事の文面を考えた。
中身は開けなくても一字ずつ思い出せる。
封筒を受け取った。蝋は冷たかった。
「旦那様がお待ちです。朝食の席でご覧になりたいと」
「後で読むわ」
執事が瞬きをした。リディアは封を切らずに封筒を机の引き出しへ入れ、鍵をかけた。
十年同じ屋根の下で暮らし、十年隣の席を空けていた夫から、これから結ぶはずの婚約の手紙が来ていた。




