第四十九話 十年を突き合わせる
翌日の昼、公爵邸の客間の卓には茶器と並んで薄い綴りが一つ置いてあった。
「今の屋敷の配膳の決まりだ。騎士団の規定を、この家でどう運用しているか。家令が書いたものを写させた」
アレクシスは綴りをこちらへ押した。
リディアは開いた。厨房から食堂までの経路、配膳を受け持つ者の名、客がある日とない日の違い。客のない日は、家族の食堂へ入る給仕を二人に限り、皿は厨房で先に取り分ける。客のある日は、厨房の出入りが増えるので、主の皿だけ別の盆で、別の者が運ぶ。
研究室の机の上で、紙の札を並べ替えた日のことを思い出した。
リディアは冊子を開いて、あの日の頁を彼の前に置いた。公爵邸の一階の図。厨房、配膳口、廊下、食堂。並べ替えた札の順。
「前の人生で、あなたの食事はいつも別でした。別の盆で、別の時刻に。規定を読んで、毒を警戒していたのかもしれないと考えました。でも、規定が禁じているのは同じ皿から取ることで、同じ卓につくことではありません。順番を替えれば、同じ卓につけたのではないかとも考えました」
アレクシスは頁の上の札の図を見ていた。長いこと見ていた。
「毒は、警戒していた」
彼は言った。
「前の人生でも、騎士団長の食事は規定どおりにした。あの頃の公爵邸は客が多かった。厨房の出入りも多かった。だから別の盆にした。それは本当だ」
「夜のことは」
「地下で何かあれば、夜中でも出た。詰所に近い棟で寝たのも、そのためだ」
リディアは冊子の今世の裏付けの欄を見た。ローランの話。詰所のすぐ上の部屋。
「それも、本当だと思います」
リディアは頁から顔を上げた。
「でも、それで説明できるのは、別の盆と、別の棟までです。客のない日にも、あなたは食堂へ来ませんでした。十年、ほとんど一度も」
アレクシスは目を伏せなかった。
「……離れていなくてもよかった日にも、行かなかった」
声は低かったが、はっきりしていた。
「規定のためだけではない。自分で、避けていた」
なぜ、と聞きかけて、リディアは唇を結んだ。
今それを聞けば、答えがどんなものでも、自分は泣くか、怒るかする。十年分をこの客間で彼にぶつけてしまう。そうなれば、今日確かめに来たことは何も確かめられない。
「その理由は、必ず聞きます。今日ではなくて」
アレクシスは一度だけ、頷いた。
リディアは冊子に書いた。避けた理由、未回答。
---
リディアは冊子をめくって、匿名の花の頁を開いた。
「もう一つ、伺いたいことがあります」
彼の目が頁の上で止まった。店の印を描いた図と、白の小花、葉多め、祭の二日前の昼、という行。
「花屋通りの店に、私宛ての注文がありました。名前のない、白い花です。受付は、私があなたとの婚約を断った半月ほど後でした。注文した人の名前は、店は言いません。言わせるつもりもありません」
リディアは頁の上に手を置いた。
「あなたですか」
アレクシスは少しのあいだ黙っていた。
それから、頷いた。
「俺だ」
リディアは息を吸った。吸った息がうまく吐けなかった。
「名前を書かなかったのは」
「書けば、断られたことを責めているように見える。君が受け取りにくくなる」
彼は卓の上の自分の手を見ていた。
「受け取りたくなければ、断れるようにしておいた。店にもそう頼んである」
辞退も承ります、と店主は言った。あれは、店の決まりではなかったのかもしれない。
リディアは冊子の推測の行を見た。贈り主、不明。候補から外せない人。その横に新しく書いた。今年の注文、本人が認めた。
ペンを止めて、聞いた。
「前の人生の、誕生日の花は」
アレクシスはほんのわずかに顔を上げた。
「あれも、俺だ」
十年分の白い花が目の前に浮かびかけた。昼の鐘のあと、家令が抱えてきた束。葉を落としましょうかと聞いた侍女。窓辺で枯れていった花。
花を贈る人が、どうして一度も向かいの席に座らなかったのか。
その問いは、今日はまだ書けなかった。
リディアはペンを握り直した。
今世の注文は店の帳面にある。前の人生の十年分は、彼がそう言った、というだけだ。リディアは二つを同じ行に書かず、今年の行の下に線を引いて別の欄にした。
書いた字が少しだけ震えていた。
---
茶を一口飲んで、リディアは冊子を次の頁へ進めた。前の人生の記憶の欄。嫁いでからの年を自分の覚えている順に並べてある。
「順番に、確かめたいんです。一年目から」
アレクシスは頷いた。
一年目。婚礼のあと、彼が北の砦から戻らなかった冬。二年目。夜会で別々の場所に立つようになった年。彼の答えは短かったが、自分の記憶と大きくは食い違わなかった。年が合い、場所が合った。
「三年目は」
リディアが言いかけると、アレクシスの手が卓の上で止まった。
「三年目の冬に、君が熱を出した」
リディアは顔を上げた。
「長く引いた。医者が何人も来た。春になる前に――」
彼はそこで言葉を切って、口を閉じた。
リディアは彼の顔を見ていた。
熱。何人もの医者。春になる前に。
その先に来る言葉は、一つしか思いつかなかった。
三年目の冬。熱を出した覚えはなかった。三年目の秋には雨の夜があり、冬には、いつもどおり一人の食卓があった。春には庭の木が芽吹き、四年目が来た。
「もし、あなたの覚えている冬に、私が春を待たずに死んだのだとしたら」
自分の声がひどく静かに聞こえた。
「それは、私の十年ではありません。私は三年目の冬に熱を出していません。四年目も、五年目も生きました。十年目の建国祭まで生きて、あの広場で死にました」
アレクシスは何も言わなかった。左の手が卓の上で握られかけて、止まった。
長い沈黙だった。
「……混ざっている」
やっと出てきた声は、低く掠れていた。
「俺の覚えていることの中に、君の十年と合わないものがある。それは、分かっている。だが、今、順番に並べて話すことができない」
「どこから混ざっているのかも、ですか」
「それも、まだ言えない」
嘘だと決めつけることはできなかった。彼は言い繕わなかった。言い間違えた、とも言わなかった。合わないものがある、と言った。
信じたいと思う気持ちが先に立っていることも、分かっていた。
それなら、合わないまま書くしかない。
リディアは冊子に、合わないまま書いた。次に聞くこととして、病の結末と記憶の範囲を、その下に足した。
「今日は、ここまでにします。説明していただいたことにはしません。次の時に、また聞きます」
「分かった」
アレクシスはそれだけ言った。
客間を出て、家令の後について廊下を歩きながら、リディアは冊子を胸に抱えていた。
雨の夜は一字も違わなかった。食卓の盆も、夜の棟も、白い花も、彼の言うことと自分の記憶は重なった。三年目の冬だけが、重ならなかった。
同じ十年を話しているはずなのに、結末が合わない。




