第四十八話 前の人生で見た
遺跡の入口の外で、ユリウスは石に腰を下ろして帳面を書き続けていた。
片づけは済んでいた。器具は布に包んで鞄の中にある。中の作業は、決めた時刻に終えていた。
「エルフォード様。出る時刻です」
ギルベルトがそう言ったのは、日がまだ丘の上に高いうちだった。入る前に三人で決めた時刻だ。
「あと少しだけ、ここで書かせてください。中ではなく、外ですから」
そう答えたのはリディアだった。ユリウスは、今日呼び分けた五本の線と、直しの場所と、出力と待ち時間を、忘れないうちに全部書いておきたいと言った。リディアも同じ気持ちだった。隣で自分の読みを清書し、五本目が混ざった時の条件を二人で一つずつ確かめ合った。
外なら、決めた時刻を過ぎてもいい。そう考えていたのだと、あとで気づいた。前の日、油が胴に入ったところで、あと一回と言うユリウスを止めたのは自分だった。
「エルフォード様」
ギルベルトが二度目に声をかけた時、日は丘の稜線にかかっていた。
リディアは顔を上げた。影が長い。
「……すみません。すぐ出ます」
馬に乗ってからも、日は待ってくれなかった。街道の半ばで空が赤くなり、東門が見えた時には、門の上に灯りが入っていた。
門の内側に騎馬が二騎あった。
一人はローランだった。もう一人は、馬から降りて門柱の脇に立っていた。
アレクシスは近づいてくる一行を見ていた。
ギルベルトが先に馬を寄せ、何か短く報告した。アレクシスは頷いた。それから、リディアの方へ歩いてきた。
「遅い」
声がいつもより大きかった。
リディアは馬から降りた。手綱を持ったまま、彼の前に立った。
アレクシスは口を開いた。何か続けようとして、止まった。視線が、リディアの顔から、手、足元へ移った。それから、後ろのユリウスへ、ギルベルトへ、馬番へ。
「怪我は」
「ありません。誰も」
「中で何かあったのか」
「何もありません。崩れも、光も。予定どおり、最初の部屋から先へは入っていません」
アレクシスはもう一度、全員を見た。一人ずつ、数えるように。
それから、息を吐いた。
「……なら、いい」
声が元の低さに戻っていた。
リディアは手綱を握り直した。
「遅れたのは、私のせいです。ギルベルトさんは決めた時刻に声をかけてくれました。外で書くだけなら構わないと考えて、私が延ばしてもらいました。昨日、ユリウスには決めたところで手を止めさせたのに、自分の決まりは、外だからと例外にしました」
アレクシスは黙って聞いていた。
「これからは、出る時刻はギルベルトさんが決めます。声がかかったら、その場で片づけて発ちます。書き終わらなかったものは、持って帰って書きます」
リディアはそこで一度、息を吸った。
止められる、と思っていた。北門の外と同じように、東門の外への同行も止める。そう言われたら、どう答えるかも考えていた。
アレクシスはしばらく黙っていた。門の灯りが彼の顔の片側だけを照らしていた。
「止めない」
先に言われた。リディアは口を開きかけたまま、言葉が出てこなかった。
「決め方を自分で直せるなら、止める理由はない」
アレクシスはギルベルトの方を見た。ギルベルトが短く頷いた。
「……続けさせてください。今の決め方で、もう一度」
「ああ」
ローランが馬上で、小さく肩をすくめた。何か言いたそうな顔だったが、何も言わなかった。
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門の脇で、ユリウスとギルベルトとは別れた。ユリウスは帳面を鞄に入れながら、明日は研究室で清書だね、と言った。リディアは頷いて、手を振った。
伯爵邸へはギルベルトが使いを出してくれた。リディアは公爵家の馬車に乗った。
公爵邸の客間には灯りが二つ入っていた。家令が茶を置いて下がると、部屋には二人だけになった。茶器の把手には今日も布が巻いてあった。
リディアは冊子を膝に置いた。
「北の遺跡のことを、伺いたいんです」
アレクシスはこちらを見た。
「北の奥に何があるのか。北門の外を止めているのは、なぜなのか。前に聞いた時は、もう少し待ってくれと言われました。今日は、前の人生で知っていることとして、聞かせてください」
彼はすぐには答えなかった。杯に手を伸ばして、触れずに戻した。
「北の遺跡の奥で、前に見たものがある」
低い声だった。
「人を縛って、別のところへ運ぶ術式だ。床に組んであって、上に立った者を動けなくする。それから、どこかへ移す。どこへ移すのかは、俺には読めなかった。何のためのものかも分からない」
リディアは冊子を開いた。
「型、ですか。その術式の」
「型と言っていいと思う。同じ組み方のものを、一度だけではなく見た気がする。だが、どこで何度見たのかは、はっきりしない」
「北門の外を止めているのは」
「それもある。北の奥だけではなく、同じ型が門の外のどこかにあるかもしれない。どこにあるのか、俺には分からない。分からないから、門の外ごと止めた」
全部ではない、とリディアは思った。それでも、空いていた理由の欄に、初めて言葉が入った。
「それを見たのは、前の人生の、いつですか」
アレクシスは目を伏せた。
「……分からない」
「私が嫁いでから、何年目のことですか。北の遺跡へ騎士団が入ったのは」
「それが、確かめられない」
彼は卓の上の自分の手を見ていた。
「北の奥で見たことは覚えている。床の線の形も覚えている。だが、それが君の十年のうちのいつだったのか、順番に並べられない」
リディアはペンを持ったまま、彼を見た。
雨の夜のことは、年も季節も廊下の場所も、自分と同じに覚えていた。北の奥のことは、いつだったのか言えない。
同じ人の記憶なのに、手触りが違う。
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リディアは冊子に書いた。人を拘束し、移送する術式。床に組まれる。移送先、目的、不明。
それから、その行の頭に自分の言葉で名前をつけた。
回収の型。
「回収、と書いておきます。説明する時に、何を指しているか分かるように。運ぶ先も目的も、分からないままです」
アレクシスは頷いた。
リディアはその下に線を引いて、本人が見たと言うことと、本人にも確かめられないことを分けた。自分で確かめたことの欄には、まだ何も書けなかった。
冊子を閉じた。層分離の記録は、院に出す帳面の方に書く。こちらとは混ぜない。
「明日、もう一度伺っていいですか。昼に。食卓と夜のこと、約束していた話を」
「待っている」
「それから、今日のうちに、一つだけ決めておきたいことがあります」
リディアは冊子とは別の紙を一枚出した。
「巡回の人たちに渡せることです。前の人生の話は抜いて、今の危険としてだけ。北の奥に、人を縛る仕掛けがあるおそれ。奥へは入らない。似た形の床の線を見つけたら、踏まず、触れず、場所を書いて離れる」
「似た形、では分からない」
アレクシスは紙を引き寄せて、隅に図を描いた。円を二重にして、外の円から内へ向かう短い線を何本か。描きかけて、そのうち一本を消した。
「確かなのは、これだけだ。細かいところは覚えていない。覚えていないものは描かない」
粗い図だった。それでも、巡回の者が足を止める理由にはなる。
アレクシスは図の下に一行足した。似た線の報告は騎士団長へ直接。リディアはその横に書いた。見つけた者は近づかず、詳しい者が確かめるまで待つ。どこまで離れれば安全かは、まだ分からない。
「門の外の巡回には、明日から回す」
紙はそのまま、彼の手元に残った。
帰りの馬車の中で、冊子を膝に置いたまま、窓の外の暗い街を見ていた。
彼は前の人生を覚えている。雨の夜を覚えている。建国祭の日を覚えている。けれど、北の奥で見たものは、いつのことなのか言えない。
彼の言う「前」は、自分の十年のどこにあるのか。




