第四十七話 地層の筆跡
翌日、東門を出たのは朝の鐘のすぐあとだった。
遺跡の最初の部屋に着くと、ユリウスは昨日と同じ場所に針を当てた。出力は昨日の二本目の目盛り。拍を流して、二十拍待つ。
水晶の板に線が浮かんだ。昨日の二本目と同じ線だった。
「出た」
ユリウスは小さく言った。喜ぶより先に帳面に書いた。日付、場所、出力、待ち時間、浮かんだ線の形。昨日と同じ条件で、同じ線が出たこと。
「三本目も」
出力を一目盛り下げる。待つ。三本目が浮かんだ。昨日より輪郭がはっきりしていた。石の温度が違うのかもしれない、とユリウスは言って、それも書いた。
午前のうちに壁の東側の一区画で、五本の線を呼び分けた。四本目は昨日出なかったが、待ちを三十拍まで延ばすと出た。五本目は一度だけ隣の線と混ざった。ユリウスはその失敗も、条件ごと書き留めた。
「混ざった時の条件まで、手順に入れるんですか」
「書かないと、次に誰かが同じ条件でやって、同じように混ざって、僕の手順が間違ってると思う。どこまでならできて、どこからできないか。それが手順だよ」
ユリウスは帳面の頁の上に少し大きな字で書いた。
層分離。
「名前、付けたんですか」
「今付けた。地層みたいに積んであるのを、一枚ずつ剥がさずに分けるから。もっといい名前があったら変える」
「いい名前だと思います」
ユリウスは照れたように頭を掻いた。それから帳面の字をしばらく眺めて、指で一度なぞった。
「層分離」
もう一度、声に出して言った。自分の付けた名前が、ちゃんと名前に聞こえるかどうか確かめるように。
リディアは帳面の新しい頁にユリウスの書いた条件を写した。それから、自分の読みを並べた。五本の線を、上から順に。
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並べてみて、手が止まった。
五本の線はどれも同じ術式を書こうとしていた。受け取り口の形、流れ込む二本、分かれ目の取り方。少しずつ角度や長さが違うが、目指している形は一つだった。
違うのはその先だった。分かれ目のあとの折れ方が、層ごとに違う。一本目はまっすぐ。二本目は緩く左。三本目は鋭く右へ折れて、途中で止まっている。
止まっている、のではなかった。
リディアは三本目の溝の終わりを灯りで照らした。線が一度伸びすぎて、途中で引き返している。伸びすぎた部分を消す代わりに横に短い線を二本引いて打ち消してある。そのすぐ脇から、もう一度、少し角度を変えて書き直していた。
書き損じて、直した跡だった。
「ユリウス。四本目の、この辺りを呼べますか」
ユリウスが出力を合わせる。板に四本目が浮かんだ。
四本目も、同じ場所で伸びすぎていた。同じように短い二本の線で打ち消して、同じ脇から書き直している。
「五本目も」
五本目も同じだった。
打ち消しの線の引き方が、どれも同じだった。二本の短い線を、少し右へ傾けて、上から下へ。書き直す時に、元の線より少しだけ手前から始める癖。
リディアは板から目を離せなかった。
一人の書き手の手に見えた。違う時期に刻まれた層に同じ手の癖が残っている。
北の遺跡の写しを初めて見た日、自分は年代を考えた。古い遺跡だから、古い書き手がいて、長い年月のあいだに線が欠けた。そう読んだ。地下の遺構でも、北の遺跡でも、同じ図形を見た時、同じ流派か、真似した誰かかと考えた。
違うのかもしれない。
古いから欠けた、というだけでは説明がつかない。同じ人が、同じ場所に、何度も同じ術式を書いたのだとしたら。その度に同じところで書き損じて、同じように直したのだとしたら。
もしそうなら、重なりの数は、年月ではなく、繰り返した回数なのかもしれない。
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「ねえ」
ユリウスの声がいつもより低かった。
「僕の方も見て」
ユリウスは帳面を広げた。五本の線について、どこで書き損じ、どこで直したかを、一本ずつ並べてある。
「直してる場所が同じなんだ。分かれ目の手前で一回。ここで伸びすぎて打ち消すのが一回。受け取り口の端を少しだけ削ってるのが一回。五本とも、同じ三か所を、同じやり方で直してる」
ユリウスは指で、三つの修正箇所を順に叩いた。
「ただ、呼び出した順は出力の強い順だから、刻んだ順と同じとは限らない。どれが先に書かれたのかは、まだ分からない」
ユリウスは帳面から顔を上げた。
「それでも、同じ人が、同じ術式を、同じ間違え方をしながら、何度も書き直した。そう考えるのがいちばん素直だと思う。仮説だけど」
「何度、ですか」
「分からない。今日呼べたのは、東の壁の一区画の五本だけ。出力を上げれば、もっと下があるかもしれない。上げたら上の線まで引っ張って、分けられなくなる。だから上げない。全部の層を数えたわけじゃないし、数え方もまだない。五回かもしれないし、もっとかもしれない」
ユリウスは帳面の端に書いた。同一の書き手による反復の作業、仮説。層数、未確定。
リディアはその字を見ていた。
ユリウスは笑い話のように言わなかった。研究者が真面目に書く時の字だった。
同じ人が、何度も。
それを、遺跡の話としてだけ聞くことは、もうできなかった。自分は一度、同じ朝へ戻ってきた。同じ十七歳の朝を、二度目に生きている。前の人生を覚えている人も、一人知っている。
壁の書き手と自分たちを結びつける根拠は、何もない。それでも、笑い飛ばすことはできなかった。
「どうしたの」
ユリウスが顔を上げた。
「顔色、悪いよ」
リディアは帳面を閉じかけて、やめた。
ユリウスには言えないことがある。けれど、それはこの壁の読みとは別のことだ。ユリウスの仮説を自分の事情のせいで笑い飛ばしたり、聞かなかったことにしたりするのは違う。
「笑えないと思ったんです。その仮説」
「僕もだよ」
「ユリウス」
リディアは帳面を胸に引き寄せた。
「私には、まだ話せないことがあります。この壁のことではなくて、私のことです。でも、もしそれが、この調査の判断を変える根拠になると分かったら、その時は必ず話します。黙ったまま、あなたに危ない判断をさせたりしません」
ユリウスはしばらくリディアを見ていた。それから、肩をすくめた。
「約束だよ」
「約束です」
「なら、今日は聞かない」
ユリウスは針を布に包み始めた。手灯りの油は胴に入りかけていた。
リディアは最後にもう一度、壁を見た。灯りを斜めにすると、溝の縁が何本も光る。同じ形の、同じ癖の、何本もの線。
同じ人が何度も書いたのではないか。




