第四十六話 剥がさずに読む
手灯りの油はまだ壺の首のあたりまであった。
リディアは壁の前に膝をつき、重なった線のいちばん上だけを読もうとしていた。溝の縁の、いちばん浅く、いちばん新しく見える一本。それを指でなぞらずに目だけで追う。
受け取り口。流れ込む二本。分かれ目。その先が、また混じる。
混じる手前で、リディアは目を閉じた。
上の線は、ここまでこう来た。なら、この先はこう折れるはずだ。いつもそうしてきた。欠けた行は、前後から補えば読める。読めた行は、試せば合っていた。
目を開けて、帳面に書いた。上の層、ここで右へ折れ、二つに分かれる。
「待って」
ユリウスの声だった。
「今、どこを見て書いた」
「上の線です。ここまでの流れからすると、この先は右へ」
「ここまでの流れって、どの線の流れ」
リディアは答えようとして、止まった。
ユリウスは手灯りを溝の縁に寄せた。
「受け取り口から分かれ目までは、確かに上の線だと思う。でも分かれ目のすぐ手前で、上の線が一度切れてる。切れたところから先、君が目で追ってたのは、たぶん二本目の線だ。角度が少しだけ違う。で、君が補った右への折れ方は、三本目の折れ方に近い」
リディアは壁に顔を近づけた。
分かれ目の手前に髪の毛ほどの段差があった。溝の深さがそこで変わっている。
気づかなかった。
読めると思った。次の行が見えると思った。けれど見えていたのは、違う線から借りてきた続きだった。三本の線を、一本の文として繋げて読んでいた。
「……間違えました」
「うん。僕も最初、同じことをやった」
ユリウスは帳面をめくって、走り書きの頁を見せた。線が二重三重に重なった図がいくつも並んでいた。
「君ならもしかしたら、と思ったけど。重なってるものは、読む力が強くても分けられない。強い人ほど、混ざったまま一本に読んでしまう」
リディアは自分の帳面の行に線を一本引いた。上の層、ここで右へ折れ、と書いた行だ。その横に書いた。補読、誤り。三層を一つに繋げた。
書いてから、少しだけ悔しかった。読めない線があることより、読めたと思ったことの方が悔しかった。
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「それで、ここからが僕の番」
ユリウスは鞄から、布に包んだ器具を出した。
細い銅の針が二本。指ほどの長さの、薄い水晶の板。それから、目盛りのついた小さな調整輪。重なった線を分ける手順。ユリウスと二人で院に出した申請の、彼の受け持ちの分だ。何を目指しているのかは聞いていた。けれど、器具が動くところを見るのは初めてだった。
「舞踏会の次の朝、僕が作業台に突っ伏してたの、覚えてる?」
「はい。紙が散らばっていました」
「あれ、これの続き。申請に書いた分離の手順の、中身がこれ。術式の線には、刻んだあとも魔力が少し残ってる。残り方には拍みたいなものがあって、刻んだ時の書き手の魔力で、拍の揃い方が少しずつ違う。同じ場所に時期を変えて重ねて刻めば、線ごとに拍がずれる」
ユリウスは針の一本を溝のすぐ脇の石に当てた。もう一本を水晶の板に繋ぐ。
「こっちから、決まった拍で弱く魔力を流す。拍が合った線だけが、少し応える。応えた分だけ、板に出る。削らないし、剥がさない。上の線を壊して下を見るんじゃなくて、拍で一本ずつ呼ぶ」
「位相、ですか」
「そう。位相の差。申請を出すまでは、誰も面白がってくれなかったけど」
ユリウスは調整輪を少しだけ回した。
水晶の板に薄い線が浮かんだ。
一本だった。溝に刻まれた線のうちの、一本だけ。受け取り口から分かれ目へ、そして分かれ目の手前で、右へは折れずにまっすぐ続いている。
リディアは息を呑んだ。
「上の線です。さっき私が、右へ折れると書いた」
「まっすぐだね」
ユリウスの声が少しだけ弾んだ。何か冗談を言いかけたように口が開いて、閉じた。代わりに調整輪を一度戻して、もう一度同じだけ回した。
同じ線が、同じ場所に浮かんだ。
「……出るね。何度でも」
今度は、はっきり笑っていた。
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二本目を呼ぼうとして、うまくいかなかった。
ユリウスが調整輪を回すと、板の線が揺れた。一本目と二本目が、半分ずつ重なって浮かぶ。分かれ目のあたりで、二つの線が絡まって、どちらがどちらか分からなくなった。
「混ざった」
ユリウスは輪を戻した。板の線が消える。
「拍が近すぎるんだ。一本目と二本目は、刻んだ時期がそんなに離れてないのかもしれない」
「流す魔力を、もう少し弱くしたら」
「弱くすると、応える線が減る。でも、隣の線まで引っ張らずに済むかもしれない」
「読み取る間を、長く取ったら。応えてすぐ読むんじゃなくて、拍が落ち着くまで待つ」
ユリウスが顔を上げた。
「それ、いいかも」
二人で試した。出力を一目盛り下げる。拍を流してから、手灯りの炎が三度揺れるくらい待つ。板を見る。
線が浮かんだ。一本目とは違う角度で、分かれ目の手前から緩く左へ曲がっている。隣の線は混じっていなかった。
「二本目」
リディアは帳面に写した。ユリウスが出力を横に書き込んで、待ち時間の欄で手を止めた。
「炎が三度、じゃ駄目だ。風が入れば早く揺れる。次に誰かがやっても同じにならない」
ユリウスは針に指を添えた。流している拍は、指先にかすかに伝わってくるらしい。
「もう一回。今度は拍を数える」
同じ出力で、同じ線を呼んだ。ユリウスは目を閉じて小さく数を数え、二十で板を見た。二本目が、さっきと同じ角度で浮かんでいた。
待ち時間、二十拍。ユリウスはそう書いて、線で囲んだ。
三本目はもう一目盛り下げなければ出てこなかった。四本目は出てこなかった。出力を上げれば出るかもしれない。けれど上げれば、上の線まで引っ張る。
リディアは手灯りの壺を見た。油は首の下まで減っていた。
「ここまでにしましょう」
ユリウスは調整輪から手を離さずに板を見ていた。
「あと一回だけ」
「入る前に決めました。油が胴に入ったら、片づけを始める。出力は今日の上限を超えない」
ユリウスは少しのあいだ黙っていた。それから、息を吐いて、針を石から離した。
「決めたね。僕も一緒に決めた」
「明日、また来ます。今日の出力と待ち時間から始めれば、続きはすぐです」
入口の内側から、ギルベルトが声をかけてきた。外の日の傾きを見ているらしい。
「エルフォード様。そろそろです」
「今、片づけています」
リディアは器具を布に包むユリウスの手元を見て、それから壁を見た。
灯りを斜めにすると、溝の縁が光る。一本に見えていた線が、今は何本もの線の束に見えた。
板に浮かんだ二本目と三本目を帳面の上で並べた。角度は違う。曲がる場所も違う。けれど、受け取り口の形と、分かれ目の取り方は同じだった。
同じ形の線を、同じ場所に、何度も書いている。
同じ線の下に、別の「同じ線」が現れる。




