第四十五話 東へ行く理由
公爵邸から戻って三日目の朝、ユリウスが研究室の作業台に地図を広げた。
「北が駄目なら、東だ」
王都の外を描いた古い地図だった。東門を出て街道を半日足らず、丘の陰に小さな印がある。東の遺跡、と書き込まれていた。
「資料庫の棚の、いちばん下の段にあった。東の遺跡の調査記録。三十年くらい前の、入口から最初の部屋までの写し。見て」
ユリウスは束の中から一枚を抜いた。壁の線を写した頁の右下の隅に小さな図形があった。
円の中に、短い線が三本。少しずつ角度を変えて引いてある。
リディアは息を止めた。北の遺跡の入口の写しにも、地下の遺構の写しにも、同じ図形があった。術式の線とつながっていない、署名のような印。
「四例目」
「四例目。地下と、祠と、北の入口と、ここ。写しは入口から最初の部屋までだけど、調査の報告書には、奥の部屋まで入って全員戻ったって書いてある。届けも出てない。今のところ、危ない仕掛けがあるとは書いてない」
ユリウスは地図の上で指を滑らせた。
「北の奥へは当分入れない。管理官の日も決まらない。待ってる間に、同じ書き手かもしれない東の壁を見ておけば、北に入れた時に比べるものが増える。どう」
リディアは写しの頁を手に取った。図形の上に術式の線がある。線は途中で何度も太さを変えていた。写した人の手が震えたのか、それとも元の線がそうなっているのか。
「行きたいです」
ユリウスが笑った。
「だろうね」
「でも、行く前に決めることがあります。院の許可を取ります。範囲は、写しにある最初の部屋まで。合図も退路も、北と同じにします」
ユリウスは頷いて、自分の帳面を開いた。
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院の審査はその日の午後に通った。入口側の採録に限り可。危険の届けなし。北の遺跡とは管理の扱いが違うらしく、管理官の名前はどこにも出てこなかった。
研究室を出る前にリディアはもう一通、手紙を書いた。
宛先はアレクシス。東の遺跡へ行くこと。日と範囲、人員、退路、帰る時刻の見込み。それから、一行だけ足した。
東の遺跡について、前の人生で知っていることがあれば、教えてほしい。
公爵邸の客間で約束したことだった。記憶と今世の記録を、一つずつ突き合わせる。東へ行くなら、まず聞く。
返事は翌朝、ギルベルトが持ってきた。封は騎士団の印で、中は彼の字だった。
東の遺跡の記録は全部は知らない。前に見たのは入口の近くだけで、奥に何があるかは覚えていない。今世の騎士団には危険の届けは来ていない。北門の外への同行を止めている命令は、東門の外には及ばない。ギルベルトを付ける。帰りが遅れる時は入口の外の者に必ず伝えること。
リディアは手紙を二度読んだ。
知らない、と書いてあった。覚えていない、と。前の人生を覚えている人にも、知らないことがある。当たり前のことなのに、紙に書かれてみると、少しだけ足元が確かになった。
全部を知っている人の後ろを歩くのではない。知らないところへは、自分で行って見る。
「ギルベルトさん。東門の外は、団長の許可が出ています。行き先と範囲は、この紙のとおりです」
リディアは計画書の写しを渡した。ギルベルトは紙を受け取って、一行ずつ目で追った。
「東の遺跡、入口から最初の部屋まで。日帰り。承知しました。出る時刻は、自分が数えます」
「お願いします」
ユリウスが横で、少し首を傾げた。
「団長に、何か聞いたの」
「東の遺跡のことを、知っているかどうか。全部は把握していないそうです。安全を約束できるような話は、聞けませんでした。危険の届けも来ていない、と」
それは本当のことだった。前の人生、という言葉を抜いただけだ。
ユリウスに話せるのは、今分かっている危険と、許可の範囲までだった。それ以上は、彼に関わる話ではない。少なくとも、今はまだ。
「じゃあ、現地で見るしかないね」
ユリウスはあっさり言って、測定用の器具を鞄に詰め始めた。
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街道を馬で行く途中、ユリウスは鞄を三度確かめた。
「針、入れたっけ」
「さっきも聞きました」
「さっきは水晶の板のことを聞いた」
「その前は針でした」
ギルベルトが前を向いたまま、小さく咳払いをした。笑ったのかもしれなかった。
東の遺跡は丘の斜面に半分埋もれた石の門だった。
北の遺跡より低く、幅が広い。門柱の表面は風で丸くなっていたが、内側の壁は乾いていて、写しで見た線がそのまま残っていた。
ギルベルトが先に入り、手灯りを掲げて最初の部屋まで歩いた。床を足で確かめ、壁を灯りで照らし、天井の亀裂を見上げる。戻ってきて、頷いた。
「崩れはありません。奥へ続く口が一つ、左の壁に。そこから先へは入りません」
「入りません」
リディアとユリウスは声をそろえた。
ギルベルトは入口のすぐ内側に立った。外の馬番と声の届くところだ。
最初の部屋は思ったより広かった。壁の三方に術式の線が隙間なく刻まれている。リディアは手灯りを壁に近づけ、写しの頁と見比べた。
同じ線だった。三十年前の写しは丁寧だった。
右下の隅に円と三本の線の図形。それも同じだった。
リディアは壁の前に立って、線を読み始めた。
最初の数行はすんなり入ってきた。力の受け取り口。流れ込む二本。分かれ目。いつものように、次の行が見える。この形なら、次はここで折れる。
折れなかった。
いや、折れていた。けれど、折れた線の下に、まっすぐ続く線がある。まっすぐ続く線の下に、また別の角度で折れる線がある。
リディアは目を細めた。灯りを少し斜めにする。
壁の溝は一本ではなかった。同じ場所にほとんど同じ線が何本も重なって刻まれている。わずかに角度が違う。わずかに太さが違う。上の線を読もうとすると、下の線の折れ方が混じってくる。
「ユリウス」
「見てる」
ユリウスはいつの間にか隣にいた。手灯りを壁に押し当てるようにして、溝の縁を覗き込んでいる。
「写しの線が、途中で太さを変えてたのは、これだ。写した人には、一本の線が太ったり細ったりしてるように見えたんだ。実際は、何本も重なってる」
「読もうとすると、混ざります。上の行のつもりで読んでいると、下の行に移っている」
「北の入口にもあったよね。重なってるところ」
「ありました。でも、あれは二本か三本でした」
「うん」
ユリウスは壁から手灯りを離して、リディアを見た。目が光っていた。
「ここは、数が違う」
リディアはもう一度、壁を見た。
北の入口の重なりは、深さと線の癖を見れば、どちらがどちらか何となく分けられた。
ここは、それとは違った。重なっている線の数が多すぎる。深さもほとんど変わらない。癖まで同じだ。
これまで読めない線に出会うたびに、古さのせいだと思っていた。欠けたから、薄れたから、読めないのだと。
読めないのは古いからではない。分けられないほど、重なっているからだ。




