第四十四話 覚えている
アレクシスはすぐには答えなかった。
卓の上に平らに置いた左の手を、彼は見ていなかった。リディアを見ていた。何かを量っているようにも、何かを待っているようにも見えた。
答えが来る前にリディアはもう一つ言った。
「答える前に、一つだけ聞かせてください」
冊子の上に置いた手に力が入った。
「嫁いで三年目の秋でした。雨の夜です。遅くに帰ってきたあなたと、二階の廊下で会いました。家族の階段を上がって、右へ曲がった先です。あなたの外套の肩が濡れていました」
アレクシスの目がわずかに細くなった。
「あの夜、私たちは一度だけ短く話しました。十年のうち、廊下で足を止めて話したのは、あの夜だけです。何を話したか、覚えていますか」
自分の言葉は言わなかった。彼の言葉も言わなかった。冊子にも書いていない。答えを知っているのは、自分の記憶だけだった。
窓の外で、風が並木の葉を鳴らした。
アレクシスは目を伏せた。長い間ではなかった。
「君は、明日の朝は、と言った」
低い声だった。
「そこまで言って、俺の顔を見た。俺は最後まで聞かなかった。先に休んでくれ、と言って、書斎へ行った」
リディアの手が冊子の上で動かなくなった。
「朝食を一緒に、と言うつもりだったのだと思う。あとで、そう思った。聞き直さなかった」
明日の朝は。
先に休んでくれ。
一字も違わなかった。言いかけた自分の声の高さも、濡れた外套から落ちた滴の音も、背中を向けて書斎の扉が閉まるまでの数歩も、全部がその二言の後ろについてきた。
あの夜、自分は廊下に一人で立っていた。朝食の時間に食堂へ下りると、向かいの席は空いていた。そのまま、二度と聞かなかった。
この話を自分は誰にもしていない。今世の誰にも、できるはずがない。
「……覚えているんですね」
声が掠れた。
アレクシスは顔を上げた。
「覚えている。前の人生を」
はっきりした声だった。言い淀みも、言い換えもなかった。
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リディアは膝の上の冊子を握った。
胸の奥で、何かがほどけた。十年、誰とも分けられなかったものを、目の前の人が持っていた。あの廊下に、自分一人で立っていたのではなかった。
覚えているのなら、なぜ。その問いも、ほどけたところから上がってきた。けれど今は、胸の中に置いておいた。
あの廊下の続きを、この人が持っていた。今日は、それだけで手がいっぱいだった。
「あの建国祭までですか」
リディアは聞いた。
「あなたが走ってきた日まで。そこまで、覚えていますか」
「覚えている」
アレクシスの左の手が卓の上でわずかに動いた。今度は握られなかった。
「あの日のことも、覚えている」
リディアは彼の顔を見た。一度目の人生、とも、一回きり、とも、彼は言わなかった。覚えている、とだけ言った。
「話せることと、まだ話しきれないことがある」
アレクシスは続けた。
「全部を、今日ここで話すことはできない。嘘をつくつもりはない。だが、全部を話したと思われるのも、嘘になる」
言えないことは言えないと言う。王女の書庫で聞いた言葉と、同じ形だった。
リディアは頷いた。
「分かりました。全部は聞きません。今日は」
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茶は冷めかけていた。リディアは杯を取って、一口飲んだ。薄い茶だった。
「あの夜も、私が聞き終える前に、話が終わりました」
アレクシスは何も言わなかった。
「今日、私は最後まで聞けました。それで、お願いがあります」
リディアは冊子を卓の上に置いて、開いた。頁には、分けて写した行と、雨の夜の行がある。中身の書かれていない、場所と年だけの行だ。
「あなたの記憶と、私の記憶と、今世の記録を、一つずつ突き合わせたいんです。私が覚えていることを話す。あなたが覚えていることを話す。今世に残っている記録で、確かめられるものは確かめる。合わないところは、合わないまま書く」
彼は冊子の頁を見ていた。
「覚えているというだけで、全部が分かったことにはしたくありません。前の私は、確かめないまま話を作りました。今度は、確かめながら聞きたい」
「……分かった」
アレクシスは冊子から目を上げた。
「話す。君が聞くことには、答えられるところまで答える。答えられないところは、そう言う」
「途中で終わらせないでください」
「終わらせない」
短い返事だった。それでも、さっきの雨の夜の話と同じ声だった。
リディアは冊子の、雨の夜の行の下に書いた。本人の回答、一致。
それ以上は、今日は書かなかった。ペンを置いて、顔を上げた。
彼は窓を背にして座ったまま、こちらを見ていた。あの夜の廊下で、背中しか見なかった人だった。
あの夜を覚えている人が、目の前にいる。今度は、続きを尋ねられる。




