第四十三話 問いを持って行く
公爵邸へ手紙を出したのは面会室の翌々日だった。返事はその日のうちに来て、日はリディアの書いたとおりになった。
当日の昼、研究室の机で、リディアは冊子の新しい頁を開いた。
これまでの頁から彼について書いた行を拾った。踊りの癖。また間違えた。前の晩の粉屋坂。聞き返されなかった、いつも。リディ。その下に、推測を一行だけ書いた。彼は、前の人生を覚えているのかもしれない。
どの行にも、別の説明がつく。並べたのは自分だ。前世の自分は、並べて一つの話を作り、十年それを信じた。
確かめるなら、別の答え方がない問いがいい。二人とも、その場にいたこと。今世ではまだ起きていないこと。外の誰も知らない、家の中のこと。
指が一つの行で止まった。
雨の夜。廊下。
嫁いで三年目の秋だった。夜遅く、帰ってきた彼と、二階の廊下ですれ違った。外は雨で、彼の外套の肩が濡れていた。自分は一つだけ聞いた。彼は一つだけ答えた。それだけの、短い会話だった。
十年のうち、廊下で足を止めて話したのは、あの夜の一度きりだった。だから覚えている。何を言いかけたのかも、何と返されたのかも。
リディアは、その言葉を冊子に書かなかった。書いたのは、雨の夜、二階の廊下、とだけだった。
冊子を閉じた。手のひらが冷たかった。
先に話すということは、自分が覚えていることを、相手に渡すということだ。彼が覚えていなかったら、自分はただ、ありもしない結婚の話をする娘になる。
それでも、試すだけで済ませるのは、もう嫌だった。
---
公爵邸の門をくぐった時、馬車は今度は詰所の棟へ回らなかった。並木の道をまっすぐ進み、玄関の前で止まった。
扉の前に年配の男が立っていた。
白い髪をきちんと撫でつけ、黒い上着の襟を正している。前世で十年、毎朝顔を合わせた家令だった。誕生日のたびに、北の砦へ出ておられます、と言った人だ。
「エルフォード伯爵令嬢様。お待ちしておりました。客間へご案内いたします」
家令の目には、初めて迎える客を見る以上のものはなかった。
リディアは礼を言って、家令の後について玄関へ入った。
玄関広間の床は白と灰の石が互い違いに敷いてあった。正面に階段。右へ行けば食堂。左へ行けば客間と、その奥の書斎。全部知っている。家令が左へ曲がる前に、自分の足の方が先に左を向きかけた。
リディアは足を止めて、家令が曲がるのを待った。
ここは、自分の家ではない。今日の自分は、案内される客だ。
廊下を進むと、壁の燭台の位置まで同じだった。三つ目の燭台の先に、二階へ上がる小さな階段がある。家族だけが使う階段だった。あれを上がって、右へ曲がった先の廊下で、あの夜――
息が詰まった。
家令が振り返った。
「いかがなさいましたか」
「……いいえ。素敵な燭台だと思って」
「先代の奥様がお選びになったものです」
家令はそれ以上何も言わずに客間の扉の前で止まった。
リディアは扉を見た。前世では、この部屋へ客を通したことが何度もある。自分が通されるのは初めてだった。
ここで引き返すこともできた。気分が優れないと言えば、家令は馬車を呼ぶだろう。
家令が扉を開けた。
リディアは、客間へ入った。
---
アレクシスは窓を背にして立っていた。ローランはいなかった。卓の上に茶器が置いてあり、把手には布が巻いてあった。
「来てくれて、ありがとう」
彼はそう言って、椅子を示した。リディアが座ると、彼も向かいに腰を下ろした。家令が茶を注いで、扉を閉めて出ていった。
茶は色が薄かった。
リディアは膝の上の冊子に手を置いた。開かなかった。
「今日は、私が先に話します」
アレクシスは頷いた。
「信じなくてもいいです。おかしなことを言っていると思ったら、そう言ってください。でも、途中では止めないでください」
「止めない」
リディアは息を吸った。
「嫁いで十年目の、建国祭の日でした。広場の地下の魔法網が、表に出ました。人がみんな広場の外へ逃げていました。その流れに逆らって、こちらへ走ってくる人がいました」
アレクシスの顔は動かなかった。
「黒い騎士団の制服で、転んだ子供を抱え上げて、またこちらへ来ました。剣は抜いていませんでした。手袋もしていなかった。私は貴賓席の階段の上にいて、手を伸ばしました。届かない距離でした」
声が少しだけ震えた。リディアは膝の上の手を握って、続けた。
「あなたでした。私は、あなたが走ってくるのを、あの日初めて見ました」
卓の上で、彼の左の手が動いた。指が内へ折れかけた。握られる前に、その手は止まった。指がゆっくりと開いて、卓の上に平らに置かれた。
彼は何も言わなかった。目だけが、こちらを見ていた。
今世の建国祭は、まだ来ていない。自分たちは結婚もしていない。十年目の祭の話をする娘を、普通なら、正気を疑う目で見る。
彼の目は、そういう目ではなかった。
リディアは用意してきた問いを口にした。
「前の人生を、覚えていますか」




