第四十二話 母の呼び方
朝食のあと、リディアは兄の部屋の扉を叩いた。
兄は出かける支度の途中だった。上着の袖に腕を通しながら、どうした、と目で聞いた。リディアは記録の綴りを開いて、机の端に置いた。
「兄様。北の遺跡の写しを貸してくださった時の記録です。表紙の裏の管理印のことを、伺いたくて」
兄は綴りに目を落とした。リディアの字で書かれた、円に番号、という行を読んで、袖のボタンを留める手が一瞬止まった。
「その印か」
「昨日、同じ印を見ました。王女殿下から開示していただいた紙の最後に、押してありました。管理先は零号室、王家直属、と」
「殿下から」
兄はボタンを留め終えて、椅子の背に掛けてあった鞄を取った。
「名前まで聞いているなら、話が早い。院の中に、王家から預かった古い記録を別に管理するところがある。私も仕事で関わることがある。あの写しも、そこから借りた。それだけだ」
返事は早かった。前から用意してあったように、言葉に迷いがなかった。
「お前の研究を止めるための部署じゃない。古い記録を、散らばらないように預かっているだけだ。安心していい」
兄は鞄を肩に掛けた。話はそこで終わりだという顔だった。
リディアは綴りを閉じなかった。
「閲覧請求を出し直しました。昨日、バルド室長の署名をいただいて。宛先は零号室の受付です」
兄の足が扉の手前で止まった。
「そうか」
「取り下げるつもりはありません」
兄は振り返って、少しのあいだ妹を見ていた。困ったような、何かを測るような目だった。
「取り下げろとは言っていないよ」
そう言って、兄は笑った。いつもの笑い方だった。
「お前は自分で決めたことは曲げないからな。気をつけて行きなさい」
扉が閉まった。
リディアは机の上の綴りを見下ろした。形が似ているだけではなかった。兄の写しは、零号室から借りたものだった。
分からないのは、自分の報告の一行がなぜそこへ移されたのか、なぜ閲覧が止められているのかだった。兄はそこには触れずに、安心していいと言っただけだった。写しを借りた日と同じだった。
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昼過ぎ、院の面会室に呼ばれた。
騎士団からの申し入れだと受付で聞いた。北の件だろうと思って行くと、卓の向こうにアレクシスが一人で座っていた。卓の上に封をしていない書類が一枚と、茶器が置いてある。
「北の件だ」
アレクシスは書類をこちらへ押した。
「管理官の確認が延びている。王家の側で、日が決まらない。それまで北の遺跡には院の調査も入れない。北門の外への同行の停止も、続ける」
リディアは書類を読んだ。騎士団長の名で、院の研究室長宛て。一つ目は遺跡の調査の延期で、理由の欄に管理官の確認待ちとある。二つ目は北門の外への同行の停止の継続で、理由の欄は空いていた。
「遺跡の延期は分かりました。管理官の確認がないまま入れないのは、私も同じ考えです」
リディアは二つ目の段に指を置いた。
「でも、北門の外の停止は、遺跡とは別の話です。こちらの理由は、まだ伺っていません」
「……そちらは、もう少し待ってくれ」
「待ちます。ただ、答えていただいていないことは、答えていただいていないと書いておきます」
アレクシスは頷いた。否定はしなかった。
「室長に回します」
リディアは書類を畳んで、膝の上に置いた。
卓の上の茶器から、湯気が細く立っていた。茶はまだ注がれていなかった。
リディアは手を伸ばして、茶器の把手を取った。
「リディ」
声が飛んできた。
把手が熱かった。指先に痛みが走って、リディアは手を引いた。茶器が卓の上で小さく鳴った。
それから、今聞いた声が、耳の中でもう一度響いた。
アレクシスは身を乗り出しかけた姿勢のまま、止まっていた。右の手が卓の上に浮いている。口は何か言いかけたまま閉じていた。
「……すまない」
彼は手を引いて、椅子に座り直した。
「把手は、布を巻いて持つ。騎士団の茶器は、そういう作りだ」
卓の端に畳んだ布が置いてあった。彼はそれを取って把手に巻き、二つの杯に茶を注いだ。色の薄い茶だった。一つをリディアの前に置いて、短く聞いた。
「指は」
「平気です。少し赤いだけです」
リディアは指先を握ったまま、杯を見ていた。
リディ。
母がそう呼んだ。小さい頃、庭で転んだ時も、帳面に絵を描いて見せた時も。母がいなくなってから、その呼び方をする人はいなかった。兄はリディアと呼ぶ。父もそうだ。ミレイユでさえ、一度も使ったことがない。
前世の十年、夫からは一度も聞いたことがなかった。名前で呼ばれたことさえ、数えるほどしかない。
「今、何と呼びましたか」
アレクシスは杯を持ち上げかけて、止めた。
「……間違えた」
「何と間違えたんですか」
返事はなかった。彼は杯を卓に戻した。左の手が膝の方へ下りかけて、卓の縁で止まった。
リディアは自分の指先を見た。赤くなっていたが、もう痛くはなかった。
聞きたいことは、一つではなかった。どこでその呼び方を知ったのか。母を知っていたのか。それとも、自分の知らないところで、誰かが自分をそう呼ぶのを聞いたのか。母の古い知り合いの誰かから聞いた、ということもあるかもしれない。
けれど、ここで聞いても、彼はまた黙るだろう。院の面会室は、扉の外を人が通る。
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リディアは赤くなった指を避けて杯を持ち、一口飲んだ。喉を通る温かさで、ようやく息が戻った。
「お願いがあります」
アレクシスがこちらを見た。
「二人だけで話す時間をください。北の件ではありません。研究の話でもありません。私が伺いたいことと、私がお話ししたいことがあります」
「ここでは駄目なのか」
「ここでは駄目です。扉の外に人がいるところでは、話せません」
アレクシスは少しのあいだ黙っていた。
「どこがいい」
リディアは杯の縁を指でなぞった。
院でもなく、王宮でもなく、伯爵邸でもない場所。自分が逃げ出したくなっても、逃げずにいられる場所。
「公爵邸へ伺います。詰所の面会室ではなく、お屋敷の方へ」
彼の目がわずかに動いた。
「……分かった。家令に言っておく。日は、君が決めてくれ」
「数日ください。話す順番を、考えておきたいんです。決まったら、手紙を出します」
アレクシスは頷いて、立ち上がった。扉の前で一度だけ振り返り、リディアの手元を見た。
「指は、冷やしておいてくれ」
扉が閉まった。
リディアは一人で、残った茶を飲んだ。指先にはまだ、把手の熱が残っていた。耳には、あの呼び声が残っていた。
なぜこの人が、母の呼び方を知っているのか。




