第三十九話 同じ店へ
翌日、院を早めに出て、リディアはローデン侯爵邸へ寄った。
ミレイユは今日も自分の部屋に通してくれた。長椅子に座るなり、リディアは鞄から冊子を出しかけて、やめた。開けば、前世の欄が見える。
「花屋を探したいの」
「花屋?」
「誕生日の花を、贈り主の名前を伏せて届けてくれる店。王都にいくつもあるでしょう」
ミレイユは首を傾げた。
「あるわね。うちの母も使うわ。名前を出すと角が立つ相手に贈る時に。それで、どうして」
「私の誕生日に、そういう花が届くかもしれないの」
「かもしれない?」
「……そういう気がする、だけ。どこから来るのか、知りたい」
どうしてそんな気がするのかは言えなかった。ミレイユは少しのあいだリディアの顔を見ていた。この前と同じで、からかう目ではなかった。
「ねえ。一つだけ聞いていい?」
「何」
「その花、公爵様からだとは思いたくないの?」
「そういう話じゃないの」
声が思ったより強く出た。
「誰が贈ったのか分からない。それだけ。分からないから、調べたいの。思いたいとか思いたくないとか、そういうことじゃない」
言い終えると、侍女が扉の外で足を止めた気配がした。
ミレイユは怒らなかった。小さく頷いて、立ち上がった。
「分かった。なら、確かめに行きましょう」
「今から?」
「今から。分からないものは、分からないまま置いておくと、どんどん形が変わるのよ。知らないまま話を作るのは嫌だって、あなたこの前言ってたじゃない」
ミレイユが外出の支度を言いつけに部屋を出ていった。
リディアは一人になって、冊子を開いた。匿名の花の頁。
贈り主、夫ではない。彼は花を贈る人ではなかった。
昨日の帰りの馬車で書いた行だった。読み返すと、文字が妙に硬く見えた。思いたくないのかと聞かれて腹が立ったのは本当だ。それでも、この一行は調べる前に答えを書いている。
リディアは「夫ではない」に一本線を引いて、横に、不明、と書き直した。もう一行は、消す気になれなかった。行の頭に、当時の印象、と小さく書き足した。
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ミレイユの支度を待つあいだに、リディアは冊子の後ろの白い頁に包み紙の印を描いた。
細い輪。その中に斜めに置いた鋏が一つ。鋏の刃の先に小さな葉が二枚。
十年、毎年見ていた。包み紙の右下の隅、いつも同じ場所に押してあった。描くのに迷うところはなかった。
ただ、これは自分の記憶だ。包み紙そのものはもうどこにもない。前世の公爵邸の、どこかの引き出しにしまったまま、ここへは持ってこられなかった。
「それが目印?」
戻ってきたミレイユが肩越しに覗き込んだ。
「たぶん。輪と、鋏と、葉」
「鋏の印なら、花屋通りね。あの辺りは看板に道具の絵を描くのよ」
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花屋通りは、侯爵邸から馬車ですぐの、小さな店の並ぶ通りだった。
馬車を通りの入口に止め、二人は歩いた。少し後ろをギルベルトが付いてくる。行き先は出る前に告げてあった。
通りの両側に店先へ花の桶を出した店が並んでいた。看板には如雨露や、籠や、束ねた紐が描いてある。リディアは一軒ずつ看板を見上げて歩いた。
五軒目の前で、ミレイユが足を止めた。
「ねえ、リディア」
「何」
「あなたなら、どれを選ぶ?」
ミレイユは店先の桶を指していた。白、薄紅、濃い赤、黄色。束ね方も、花の大きさもまちまちだった。
「選ぶって」
「自分にあげるなら。さっきから、贈った人のことばっかり考えてる顔してるから」
リディアは桶の前で立ち止まった。
誰が、何のつもりで、どこから。昨日の帰りから、花のことをそれしか考えていなかった。自分がどの花を好きなのかは考えたこともなかった。
桶を順に見た。いちばん端の、淡い黄色の小さな花に目が止まった。花びらが薄くて、光が透ける。
「これ」
「私はこっち」
ミレイユは濃い赤を指した。
「黄色、地味じゃない?」
「赤は、強すぎない?」
二人で顔を見合わせて、少し笑った。どちらも、指を引っ込めなかった。
そのまま、リディアは看板を見上げた。
細い輪。斜めの鋏。刃の先に、二枚の葉。
冊子の頁を開いて、看板の横に並べた。線の太さは違う。葉の向きが少しずれている。それでも、同じ印だった。
「ここね」
ミレイユが小声で言った。
リディアは冊子を閉じた。記憶の中の印と同じ看板が、今世にもある。今はそれだけだった。
店に入る前にリディアは店先の桶から淡い黄色の小さな一束を抜いた。
「これを、ください」
奥から出てきた店主は白髪を短く刈った年配の男だった。黄色の花を受け取り、手早く紐を掛けて、包み紙で巻いた。包み紙の右下の隅に輪と鋏と葉の印が押してあった。
前世で毎年見ていたのと、同じ場所だった。
リディアは代金を払い、花を受け取った。腕の中で、薄い花びらが揺れた。これは自分で選んだ花だ。誰かから届いた花ではない。
それから、店主に向き直った。
「もう一つ、伺いたいことがあります。私宛ての注文について」
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店主の顔には、初めての客に向ける以上のものは浮かばなかった。
「お名前を伺っても」
「リディア・エルフォードです。エルフォード伯爵家の」
「エルフォード様。どのようなご用件で」
「名前を伏せて届ける注文を、こちらで受けていらっしゃると聞きました。私宛ての、そういう注文があるのかどうかを知りたいんです」
店主は少し困った顔をした。
「名前を伏せてのご注文でしたら、どなたからのものでも、贈り主様のお名前はお伝えしないお約束です」
「贈り主のことは、伺いません」
リディアは言った。自分でも、声が落ち着いているのが分かった。
「どなたが頼んだのかは、聞きません。私が知りたいのは、受け取る側として確かめられることだけです。私宛ての注文があるかどうか。あるなら、いつ届くのか」
ミレイユが隣で黙っていた。口を挟まずに店主の手元を見ている。
店主はしばらく考えてから、奥の棚へ行き、厚い帳面を一冊持ってきた。
「受取人様ご本人でしたら、届け先と日付まではお見せできます。贈り主様の欄は、こちらで伏せさせていただきます」
「それで構いません」
店主は帳面を台の上に置き、頁をめくった。指が一つの行で止まり、それから、その行の右半分に手のひらほどの紙を一枚載せた。
「ご本人様だと、どなたかに確かめさせていただけますか」
「私が」
ミレイユが口を開いた。
「ローデン侯爵家のミレイユです。この通りには、母の使いでよく来るの。この人は、間違いなくエルフォード家のリディアよ」
店主はミレイユの顔を見て、ああ、と小さく頷いた。それから紙を載せたまま、帳面をこちらへ向けた。
届け先の欄にエルフォード伯爵邸、リディア様、とあった。
腕の中の黄色の花が急に重くなった気がした。
贈り主を知らないまま受け取っていた花の注文が、今年もある。




