第三十八話 二日前
その夜、リディアは自室の机で冊子を開き、新しい頁に一行目を書いた。
自分の誕生日。建国祭の二日前。
書いてから、ペンを持ったまましばらく動けなかった。
前世の十年、誕生日に夫が屋敷にいたことは一度もなかった。祭の前はいつも忙しいのだと家令が言った。北の砦へ出ておられます。毎年、同じ言葉だった。祝いの食卓には父から届いた菓子と、侍女たちの小さな花束が並んだ。向かいの席は空いていた。
リディアは次の行を書いた。今年の予定。王女宛ての手紙の四通目。祭の二日前から北辺の砦へ出務。同じ日の王都の警備の調整、地下の対応、ヴァルディエ。
王都にいないはずの人の名前が、同じ日の王都の地下の欄に書いてある。
推測の欄に手を伸ばしかけて、止めた。
騎士団長の名前で、別の誰かが動くのかもしれない。北辺へ発つのが遅れるのかもしれない。予定が変わったのに手紙が追いついていないだけかもしれない。どれでも、二つの予定は並んで成り立つ。
隠しているのだと、決めることはできない。
けれど、聞くことはできる。
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翌朝、面会を申し込むと、昼前には返事が来た。その日の午後、場所は公爵邸の、騎士団の詰所の面会室。
馬車が公爵邸の門をくぐった時、リディアは膝の上で手を握った。
十年暮らした家だった。今世では、一度も来たことがない。
門から玄関までの並木。右手の厩舎。左手の、騎士団の詰所の灰色の棟。全部覚えている。並木の三本目の枝ぶりまで同じだった。玄関の前を通り過ぎる時、窓の一つに目が行った。あそこが、自分の居間だった部屋だ。
馬車は玄関の前で止まらずに詰所の棟へ回った。
面会室は詰所の一階の、窓の小さな部屋だった。卓の上に茶器が置いてある。注がれた茶は、色が薄かった。
アレクシスが入ってきた。ローランはいなかった。
「北の件か」
「北の件は、待つと言われたので待っています。今日は、別のことです」
リディアは冊子を卓の上に置いたが開かなかった。
「王女殿下のところで、今年の予定を拝見しました。見せていただいた範囲で。祭の二日前から、北辺の砦へ出務とありました。同じ日の王都の警備の欄に、地下の対応、あなたの名前がありました」
アレクシスの表情は動かなかった。
「二つの予定は、どういう関係ですか。王都を離れる日に、王都の地下を、あなたの名で」
少しの間があった。
「警備上の調整だ」
「調整、というのは」
「今年のことなら、少しは言える」
アレクシスは卓の上で手を組んだ。
「祭の前の二日、俺は王都を離れる予定になっている。その間の地下のことは、俺の名で別の者が動く。名前を出しておけば、誰の判断かで揉めずに済む」
筋は通っていた。冊子に書いた推測の一つと、ほとんど同じだった。
それなら、ここで終わってもいい。今年の予定は、今年の答えで足りる。
けれど、リディアは口を開いていた。
「では、これまでの誕生日には」
アレクシスがこちらを見た。
「私の誕生日に、あなたはいつも王都にいませんでした。じゅう――」
そこで声が止まった。
十年、と言うところだった。
今世の彼と自分には、十年も何もない。初めて会ったのは婚約の打診のあとの夜会だ。誕生日を一緒に過ごしたことなど、一度もない。
リディアは唇を結んだ。言い直す言葉を探したが出てこなかった。
アレクシスは黙っていた。
卓の上で組んでいた手がほどけて、左の手が卓の縁に落ちた。その手がゆっくり握られるのが見えた。手袋の上からでも分かるほど、強く。袖口がずれて、手首の白い痕が一瞬だけのぞいた。
いつも、とは何のことか。今世の自分の誕生日に彼がどこにいたかなど、知っているはずがない。そう聞き返すのが普通だった。聞き返されれば、自分は言い訳を探しただろう。
彼は聞き返さなかった。ただ、左の手を握っていた。
「……今年のことしか、今は言えない」
やっと出てきた声は、低かった。
「今年は、祭の二日前に王都にいない。それは本当だ」
リディアは頷いた。それ以上は自分からも聞けなかった。聞けば、自分が何を覚えているのかを話さなければならなくなる。
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帰りの馬車の中で、リディアは冊子を開いた。
今年の予定の行の横に本人の説明を足し、その下に、聞き返されなかった、とだけ書いた。推測の欄には何も書けなかった。
記憶だけを頼りに問いを重ねても、彼はまた黙るだろう。今世で確かめられるものが要る。
窓の外を王都の屋根が流れていった。
前世の誕生日をもう一度順に思い出した。空いた向かいの席。父の菓子。侍女たちの小さな花束。
思い出す順番の最後に、毎年の花があった。
誕生日の昼になると、玄関へ花が届いた。贈り主の名前のない、包み紙の端に店の印だけがある花束だった。誰からなのか、家令も知らなかった。
リディアは冊子の新しい頁に書いた。匿名の花。誕生日ごと、十年。贈り主、夫ではない。彼は花を贈る人ではなかった。
書いてから、ペン先が止まった。
夫は、誕生日にいつも王都にいなかった。それでも、名前のない花だけは、毎年届いていた。




