第三十七話 食卓と夜の仮説
翌日の昼、研究室にはリディアしかいなかった。
ユリウスは書庫で線の図を探すと言って朝から出ている。ニコは資料庫の当番だった。リディアは自分の机に王女の綴りを広げた。
騎士団長職警護規定、抄。
中身は乾いた条文だった。面会の席の茶と菓子は騎士団が用意する。騎士団長の食事は厨房から食卓までの経路を定め、配膳の者を限る。経路が定められない場では、騎士団長は他の者と同じ皿から取らない。夜間の出動に備え、寝所は警護の者が出入りしやすい位置に置き、他の者の寝所と分ける。
書いてあるのは一般の決まりだけだった。どの屋敷のどの廊下を使うのか、誰が配膳するのか、団長の寝所がどこにあるのかは一行も載っていない。
最後の条で、手が止まった。
他の者の寝所と分ける。
前世の公爵邸では夫の寝室は別棟にあった。嫁いだ最初の夜から、ずっとそうだった。そういう家なのだと思った。そういう夫なのだと思った。
リディアは規定から目を上げ、白紙を一枚引き寄せた。
公爵邸の一階を思い出して描いた。厨房。配膳口。廊下が二つに分かれて、一つは家族の食堂へ、一つは使用人の通路へ。食堂の長い卓。自分の席と、その向かいの、いつも空いていた席。
十年、毎日見ていた家だった。描くのに迷うところはなかった。
それから紙を細く切って、小さな札を何枚か作った。厨房。配膳口。廊下。食堂。自分の席。彼の席。札を机の上に並べ、規定の条文のとおりに指で道をなぞる。
厨房から配膳口へ。配膳口から廊下を通って食堂へ。配膳の者は限られる。
前世では彼の食事は別に運ばれていた。同じ時刻に食堂へ下りてくることはほとんどなかった。下りてきても、皿は別の盆に載って、別の者が運んできた。自分の皿と同じ鍋から取ったものなのかどうか、考えたこともなかった。
もし、あれが規定のためだったなら。
けれど、と思った。規定が禁じているのは、同じ皿から取ることだ。同じ卓につくことではない。
配膳口から食堂までの廊下は一本だった。家族の食堂に入るのは決まった給仕だけだった。同じ鍋から、先に彼の皿を取り分けて、決まった給仕が運べばいい。自分の皿はそのあとで取ればいい。順番を替えるだけで、同じ卓につけたのではないか。
札を一枚ずつ並べ替えた。厨房、彼の皿、決まった給仕、廊下、食堂。そのあとに、自分の皿。
食堂の札の横に、彼の皿と自分の皿の札が並んだ。
リディアは手を止めて、机の上の札を見下ろした。
札の上でなら、そう並べられる。前世の公爵邸にどんな危険があったのかは知らない。実際にこの順で守れたのかどうかも分からない。
それでも、手のひらに汗をかいていた。
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夕方、正門へ向かうと、門柱の脇にギルベルトとローランが並んでいた。
「今日は二人とも」
「交代の引き継ぎです」
ローランが答え、ギルベルトが軽く頭を下げた。リディアは少し迷ってから、ローランに聞いた。
「団長は、夜もよく呼ばれるんですか」
ローランは片方の眉を上げた。
「よく、ってほどじゃないですけど。月に何度かは。地下で何かあったとか、門で揉めてるとか。夜中に詰所へ使いが来て、団長が自分で出ることもあります」
「自分で」
「人に任せりゃいいのに、って俺は思うんですけどね。団長の部屋、詰所のすぐ上なんですよ。階段を下りればすぐ出られるようにって」
ローランはそれ以上は言わず、ギルベルトに引き継ぎの紙を渡した。
馬車に乗ってから、リディアは窓の外を見ていた。
詰所のすぐ上の部屋。階段を下りればすぐ出られる。前世の別棟の寝室も、騎士団の詰所に近い棟だった。そう思えば、そう見える。
夜中に出ていく夫の足音を自分は聞いたことがあっただろうか。別棟の音は母屋の寝室までは届かなかった。
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翌朝、研究室で、リディアはユリウスに聞いてみた。
規定の綴りは鞄の中に入れたままにした。誰でも読める綴りだから、見せて困ることはない。けれど、なぜそれを読んでいるのかと聞かれたら答えられない。前世の話も、もちろんしない。
「ユリウス。ある人が、今、仕事の都合でこういう暮らしをしている、と分かったとします。食事を他の人と分けて、夜はすぐ出られる部屋で寝る。それで、その人が何年も前から同じ暮らしをしていたことも、同じ理由で説明できると思いますか」
ユリウスは線の図から顔を上げた。
「昔も同じ事情だったって分かってればね。分からないなら、別の証拠が要る」
「……ですよね」
分かっていた。自分でもそう答えると思っていた。分かっていて聞いたのは、結びつけてもいいと誰かに言ってほしかったからだ。
ユリウスが首を傾げた。
「誰の話?」
「仮の話です」
ユリウスはそれ以上聞かずに図へ目を戻した。
昼前、ユリウスが書庫へ出ていってから、リディアは冊子を開いた。
前世の記憶の欄には、食卓の空席と別棟の寝室が書いてあった。今世の裏付けの欄に規定の条文と、ローランの話を足した。
それから、二つの欄をまたぐように下に一行書いた。
本人の証言が必要。
書いてから、机の上にまだ残っていた紙の札を見た。並べ替えた順番のまま、二枚の皿の札が隣り合っていた。
理由があったのかもしれない。そう思うと、胸の奥が少しだけ緩む。緩んだところへすぐに別のものが入ってくる。
一緒に座る方法は、本当になかったのだろうか。あったのなら、なぜ一度も、そう説明してくれなかったのか。
理由があったことと、あの距離が必要だったことは、同じなのだろうか。




