第三十六話 知らされなかった私
王宮の門を出てしばらくして、リディアは御者台への小窓を開けた。
「ローデン侯爵邸へ回ってください。少しだけ寄ります」
馬車が角を曲がった。窓の外を馬で並んでいたギルベルトが行き先の変わったことに気づいて、わずかに馬の首を寄せた。リディアは小窓越しに友人の家に寄るだけだと告げた。ギルベルトは頷いて、また少し離れた。
その横顔を見て、胸の奥が妙にざらついた。
ギルベルトの名前も、あの手紙の中にあった。護衛はギルベルト。退路は入口一つ。彼の字で、余白に一行。
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ミレイユは温室ではなく、自分の部屋に通してくれた。
「王宮から直接? 顔が怖いわよ」
「怖い?」
「怒ってる顔。王女殿下と喧嘩したの」
「してない」
リディアは長椅子に腰を下ろした。ミレイユが侍女に茶を頼み、向かいに座った。
何から話せばいいのか分からなかった。手紙の中身は話せない。人には話さないで、と王女に言われている。
「殿下とお会いしたの。噂のこと、ミレイユが教えてくれたでしょう」
「うん」
「私、殿下と公爵様が、そういう仲なんだと思ってた。少しだけ」
ミレイユは黙って聞いていた。
「でも、違ったみたい。少なくとも、私が見せてもらえた範囲では。仕事の話しかなかった」
「なら、よかったじゃない」
「よかった、のかな」
リディアは膝の上で手を組んだ。
「よかったはずなのに、ほっとしないの。何て言えばいいのか分からないけど。私のことが、私の知らないところで、いろいろ決まってたの。決まってたこと自体は、たぶん、悪いことじゃない。危なくないようにって、そういうことだったんだと思う」
言いながら、声が硬くなっていくのが分かった。
「でも、一言もなかった。ああしておいた、とも、こうするつもりだ、とも。聞いたら、言えないって。言えないことがあるのは分かる。分かるけど、言えるところまで黙っていられるのは」
そこで言葉が途切れた。
知らされなかった。前世の十年も、ずっとそうだった。何も知らされないまま、夫の決めた席に座っていた。
その話はできない。ミレイユにとって、自分はまだ十七で、婚約もしていない伯爵令嬢だ。
「……とにかく、説明してほしかったの」
ミレイユの侍女が茶を置いて下がった。ミレイユは自分の杯を取らずにリディアを見ていた。
「ねえ、リディア」
「何」
「怒ってるのは、分かった。で、どっちなの」
「どっちって」
「その人のこと、知りたいの? それとも、もう関わりたくないの? どっちでも、私はあなたの味方だけど。どっちなのかで、言うことが変わるから」
からかう声ではなかった。ミレイユは、こういう時に冗談を言わない。
リディアは杯の湯気を見た。
関わりたくない、と言うのは簡単だった。前世の十年を思えば、そう言う理由はいくらでもある。婚約は断った。研究の道も選んだ。もう、あの人の決めた席に座る必要はない。
けれど、関わりたくないなら、王宮まで手紙を読みに行ったりしない。冊子に四つの欄を作って、彼の言葉を並べたりしない。
「知りたい」
声に出すと、思ったより静かだった。
「何を考えてるのか、知りたい。私に何も言わないで、何をしてるのか。知らないまま、勝手に話を作るのは、もう嫌なの」
ミレイユは小さく息を吐いて、ようやく自分の杯を取った。
「なら、聞けばいいわ。怒ったままでいいから」
「聞いても、言えないって言われるの」
「言えないところと、言えるところがあるんでしょう。言えるところだけでも、聞くのよ。噂の話をした時、あなた、どこまでが見たことでどこからが想像かって、私に聞いたじゃない。あれと同じ」
リディアは目を瞬いた。
「あの時、ああこの子は大丈夫だって思ったの。噂を聞いて引っ込むんじゃなくて、確かめる方を選んだから」
ミレイユは茶を飲んで、少し笑った。
「怒るのも、確かめるのも、あなたらしいわ。両方やりなさい」
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伯爵邸に戻ったのは夕食の少し前だった。
食事を済ませて自室に上がると、リディアは冊子を開いた。
四つの欄の頁を一枚めくって、新しい頁に線を一本だけ引いた。左と右。北の遺跡の帰りにユリウスが帳面に引いたのと同じ線だった。
左の欄の上に書いた。前世の記憶。
右の欄の上に書いた。今世の裏付け。
左に書斎の机の上の手紙を書き、右に今日の手紙を書いた。宛先も年も違う。封筒の隅の番号だけが、左の、彼の書類の隅の番号とつながった。
それから左の欄に食卓の空席を書いた。夜会で別々の場所に立っていたこと。別棟の寝室。廊下の先の背中。
そのどれの横も、右の欄は空いたままだった。
王女がくれた規定の綴りが机の端にあった。リディアはそれを冊子の隣に置いた。明日、研究室で読む。今夜は読まない。読めば、すぐに右の欄を埋めたくなる。
前世の自分は、分からないことを分からないまま諦めた。諦めるために話を作った。
リディアは冊子を閉じて、灯りを落とした。
今度は、分からないまま諦めたりしない。




