第三十四話 十年分の記録
申請面談から五日目の昼、リディアは家を出る前に兄の部屋の扉を叩いた。
「行ってまいります」
兄は書類から顔を上げ、少しのあいだ妹を見ていた。
「気をつけなさい」
それだけだった。リディアは頷いて、扉を閉めた。
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王宮の東棟は大広間のある本館から渡り廊下を一つ越えた先にあった。
案内の侍女について歩くうちに廊下の飾りが減っていった。壁に掛かる絵がなくなり、窓が高く細くなる。最後の扉の前で、侍女が足を止めた。
「殿下は中でお待ちです」
扉の向こうは思っていたより狭い部屋だった。壁の三方が書架で埋まり、窓の下に大きな机が一つある。机の端に茶器が置かれ、湯気が細く立っていた。
エレオノーラは机の向こうに座っていた。報告会の日と同じ、飾りの少ない服だった。
「来たのね」
「お招きいただき、ありがとうございます。日を変えていただいたことも」
「先約を守る人の方が、話が早いの。座って」
リディアは向かいの椅子に腰を下ろした。侍女が茶を注ぎ、壁際へ下がった。
王女は前置きをしなかった。
「十年分を見せたいの」
リディアの指が膝の上で止まった。
十年分。
前世の公爵邸の書斎が目の前に浮かんだ。机の上に積まれた手紙。王家の紋に細い枝を添えた封蝋。行くたびに一通増えていた、十年分の。
息が浅くなった。この人は、何を知っているのだろう。何を見せようとしているのだろう。
王女は机の脇から厚い綴りを一冊引き寄せ、表紙をこちらへ向けて置いた。
王都地下魔法網観測記録、目録。
表紙をめくると、年ごとの欄が並んでいた。いちばん上が昨年で、下へ行くほど古い。十段あった。各段の端に王家の記録番号が四角い印で押してある。
リディアは段を一つずつ目で追った。最後の段の年を見て、計算した。自分が七つの年だった。帳面に木より大きな犬を描いていた頃だ。
手紙ではなかった。
膝の上で握っていた指をゆっくりほどいた。
「顔色が変わったわね」
王女が言った。責める声ではなかった。
「何だと思ったの」
「……別のものだと思いました。勘違いです」
王女はそれ以上聞かなかった。
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リディアは茶を一口飲み、杯を置いた。
聞きたいことはここへ来る前に決めてあった。噂のことではない。
「殿下。先に伺いたいことがあります。北の遺跡の次の調査には、王家の管理官が同席すると通知がありました。それから、私の報告書の一行に王家の名義で指定がかかりました。管理官を置くことと指定をかけることは、どちらも殿下のご判断ですか」
王女の目が少しだけ細くなった。
「管理官は私が出した。指定は私ではない」
「では、どなたが」
「それは言えない」
王女は綴りの表紙を指で叩いた。
「言えることと言えないことがあるの。言えないことは、言えないと言う。言えることは、隠さない。それでいい?」
「はい」
報告会の日、壇の上で聞いた声を思い出した。分からないことを、分からないと書いているのね。あの時、この人はそれを、質問ではなく確認のように言った。
「この目録は、読んでいいんですか」
「目録は読んでいい。中身はまだ。中身を見せるには、私の名前だけでは足りない手続きが要るの」
王女は立ち上がり、窓辺の小卓へ移った。
「時間はあげる。好きなだけ読んで」
リディアは綴りを手元へ引き寄せた。
年ごとの欄には月ごとの記録の冊数と、観測した区画の名前が並んでいた。区画の名前には見覚えのあるものもあった。広場の地下。北門の手前。王宮の北の区画。
頁をめくる指が自分でも分かるほど慎重になっていた。王都の地下の十年が、この部屋の書架のどこかに綴じられている。自分が書庫の床に座って写本を読んでいた頃にも、誰かが地面の下の流れを記録していた。
読み進めるうちに、一つ引っかかった。区画の境目はどの年も通りの名前で引かれている。広場の地下と北門の手前を分けているのは地上の大通りだった。地面の下の流れが地上の通りで都合よく切れているとは思えない。
「殿下。区画は、通りで分けているんですか」
窓辺の王女が顔を上げた。
「そうよ。点検路の出入口が通りに沿っているから。何か問題?」
「流れは通りで切れるとは限らないと思います。一つの流れが、二つの区画に分かれて記録されているかもしれません」
王女はしばらく黙ってリディアを見ていた。それから、手元の書類に一行書き込んだ。
「記録係からは、一度も出なかった問いね」
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どれくらい読んでいたのか分からない。窓の外の日が机の上で角度を変えていた。
王女が小卓から戻ってきて、もう一つの束を机に置いた。紐で綴じた手紙の束だった。封は切ってあり、どの封筒も同じ手で宛名が書かれている。
リディアはその字を知っていた。
「報告会で、あなたは私と公爵を見比べていたわね」
王女は椅子に座り直した。
「噂は聞いているでしょう。私と公爵が、人払いをして会っているって」
「……聞いています」
「これは、今年に入ってから公爵が私に寄こした手紙。全部ではないわ。あなたに関わるものだけ選んだ」
王女は束の上に手を置いた。
「あなたに関わるところは、あなたが読んでいい。紙を折って留めてあるところは、読まないで。それは別の人の話か、私が言えないことだから。読んだことは覚えて帰っていいし、自分の帳面に書くのも構わない。でも、人には話さないで」
リディアは束を見た。いちばん上の一通は半分が折り返され、細い紙の帯で留められていた。
指先が少し冷たかった。
「殿下ご自身は、それでよろしいんですか。私に見せても」
「よくなければ、呼ばないわ」
王女は茶を飲んだ。
「本人の目で読んだ方がいいの。人から聞いた話は、あなたは信じないでしょう。噂を信じなかったから、ここへ来たのでしょうし」
リディアは束の紐に手をかけた。
開いていいと言われた部分がある。折って留められた部分がある。前世の十年、自分は封の切られた手紙を一通も読まなかった。読まないまま、話を一つ作った。
今は、読んでいいところと、読んではいけないところが、目の前で分けられている。
紐をほどきながら、リディアは帯で留められた折り目を見ていた。
彼女が伏せたのは恋文なのか。それとも、別の何かなのか。




