第三十三話 最初の一行
夕の鐘が鳴り終わる頃、院の正門の脇にギルベルトの姿がなかった。
代わりに、ローランが門柱にもたれていた。外套の裾が煤で黒ずんでいる。リディアに気づくと、門柱から背を離した。
「ギルベルトは詰所で報告を書いてます。今日は代わりに俺が。帰りの馬車まで」
「坂にいらしたんですね。水路沿いから、お見かけしました」
「見られてましたか」
ローランは頭を掻いた。
「お怪我は」
「誰も。俺もこのとおりです」
リディアは少し迷ってから、聞いた。
「今日のことを伺ってもいいですか。言える範囲で」
ローランは顔から笑いを引いた。
「出動の概要なら。詰所の発表に出す分です」
ローランは指を一本ずつ折った。
「命令を受けたのは、前の晩、夕の鐘のあと。区域は粉屋坂の中ほど、点検口の蓋から二十歩の内。配置が済んだのは、朝の鐘の前。それ以上は、発表を待ってください」
前の晩、夕の鐘のあと。
面会室を出たのも、夕の鐘のあとだった。
リディアは礼を言った。ローランは頷いて、門の外の馬車の方へ歩き出した。数歩行ったところで、振り返らずに言った。
「団長、あなた相手だと変わるんですよ」
リディアは足を止めた。
「昨日の面会室で、あんなに喋る団長、初めて見ました。坂の名前から蓋の場所から回り道まで。俺には、いつも一言で済ませるのに」
ローランはそれだけ言って、馬車の扉を開けた。
リディアは扉の手前で、ローランを呼び止めた。
「研究室に取りに戻りたいものがあります。少し遅くなってもいいですか」
ローランは本館の方を振り返り、それから御者に声をかけた。
「本館の中なら。御者は待たせておきます。俺は門にいますんで」
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リディアは研究室へ戻った。
ユリウスはもう帰っていた。ニコが灯りを一つ残しておいてくれた。リディアは自分の机の引き出しから、薄い冊子を一冊出した。院の売店で買ったまま、使い道を決めずにしまっておいたものだった。
研究の帳面には、研究のことだけを書く。舞踏会の夜の覚え書きは、薄い手帳の頁の隅にある。昨日と今日の行は、帳面の作業の行の間に挟まっている。どれも、置き場所が違っていた。
並べて見なければ、分からないことがある。
リディアは冊子の最初の頁を開き、線を三本引いて四つの欄を作った。出来事。日付。どこから知ったか。自分の推測。
推測の欄は、いちばん右に置いた。
最初に何を書くか、少し考えた。順番に書くなら、やり直してから最初に彼に会った夜からだ。
ペンを取った。
出来事、夜会で挨拶。「顔色が悪い」「眠れていないのか」。日付、婚約の打診の後の夜会。どこから知ったか、本人の言葉、自分で聞いた。
それから、次の行へ進んだ。
試験の日の、呼ぶより早く来た騎士。北の遺跡の届け。舞踏会の、回転の前に左足を引く癖と、「また間違えた」。粉屋坂の蓋の位置。どの行も、どこから知ったかの欄を先に埋めた。
あの面会室では、頼む、という言葉も聞いた。書きかけて、どの欄に入れればいいのか分からず、ペンを止めた。出来事の欄に入れるには、声が耳に残りすぎていた。
推測の欄には、まだ何も書かなかった。
リディアはペンを置き、頁を見下ろした。
舞踏会の行と、粉屋坂の行が、上下に並んでいる。
踊りの癖は、彼の言うとおり二度の回転で覚えられたのかもしれない。坂のことは、騎士団長として何かを聞いていたのかもしれない。
推測の欄に、一行だけ書いた。彼は知るはずのないことを、ときどき先に知っているように見える。
書いてから、「ように見える」の横に小さく印をつけた。要検証。
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灯りの油が少し減っていた。
リディアは冊子を最初の頁からもう一度読み直した。読み直して、一行目で目が止まった。
夜会で挨拶。「顔色が悪い」「眠れていないのか」。
これは、違う。
あの夜、自分の顔色は本当に悪かった。十年の記憶を抱えて戻ってきたばかりで、眠れていなかった。誰が見ても分かったはずだ。
リディアはペンを取り、一行目の横に書き足した。分類違い。未知の知識ではない。目の前の様子からの言葉。
線を引いて消そうとして、ペン先が紙の上で止まった。
前世の十年、一度も聞かれなかった言葉だった。
リディアはペンを置いた。分類違いの書き込みはそのまま残し、行には線を引かなかった。
冊子を閉じて、灯りを消した。門でローランが待っている。それでも少しのあいだ、暗い研究室で、閉じた表紙の上に手を置いていた。
証拠にならない気遣いの一行を、リディアは消せなかった。




