第三十一話 朝からいた騎士
朝、院の門をくぐると、リディアは真っ先に本館の掲示板を見に行った。
昨夕と同じ紙が並んでいた。院の告知、王都の触れ書きの写し、書庫の貸出の注意。粉屋坂の名は、やはりどこにもなかった。
研究室で計画書の清書を続けた。ユリウスは向かいで、重なった線の図を何枚も描き直している。ときどき唸り声を上げては、紙を丸めずに脇へ積んだ。
昼の鐘が鳴って、しばらくした頃だった。
足の裏に、何かが触れた。
床板の下から、低いものが上がってくる。太い弦を遠くで弾いたような、揺れとも音ともつかないものだった。作業台の上で、墨壺の蓋がかすかに鳴った。
リディアはペンを持ったまま動けなくなった。
知っている揺れだった。
建国祭の広場。貴賓席の板の隙間から見えた敷石の継ぎ目。そこを走った青い線。足の裏から上がってきた、同じ低い揺れ。あの日の最後に聞いた音だった。
指先が冷たくなった。息の仕方を、一瞬忘れた。
「魔法網だ」
ユリウスが立ち上がって窓を開けた。
「北の方。……今、光った」
リディアは窓辺へ行った。王都の屋根が低く連なる向こう、北門の方角の空に、青白い光の名残が薄く漂っていた。それもすぐに消えた。揺れも、もう足の裏には残っていなかった。
あの日は、敷石を走る線をこの目で見ていた。今日見えたのは、屋根の向こうの光の名残だけだ。同じものなのかどうか、ここからでは何も分からない。
リディアは窓枠を握った手をほどいた。あの日と同じだと決めたがっているのは、自分の怖さの方だった。
「粉屋坂の方角ですか」
ユリウスが振り向いた。
「たぶん。……昨日の、あれ?」
リディアは答えなかった。
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院の点検員が北へ出ていった。しばらくして、本館の掲示板に新しい紙が貼られた。粉屋坂、魔法網点検口の不具合により当面通行止め。迂回は東の水路沿い。詳細は追って。
リディアは正門の脇のギルベルトに声をかけた。
「坂へは行きません。昨日、そう約束しました。でも、封鎖の外で、何があったのかを聞きたいんです。東の水路沿いまで」
ギルベルトは掲示を読みに行き、それから門の詰所の騎士と短く言葉を交わして戻ってきた。
「封鎖は坂の上と下です。水路沿いは通れます。二度目の噴出があれば封鎖を広げる、とのことです。水路沿いまでなら。自分の前に出ないでください」
ユリウスもついてきた。
水路沿いの道は、思っていたより人が多かった。荷車が何台も止まり、どの御者も同じ方を見ている。坂へ折れる角に縄が張られ、その手前で若い騎士が二人、通る人を水路の先へ回していた。縄の向こうの坂は人影がなく、中ほどの敷石が一か所、黒く焦げたように浮き上がっていた。坂の下の方で、ローランが騎士たちに何か指示している。こちらには気づいていないようだった。
角のパン屋の前で、粉の袋を抱えた女が騎士の方を見ていた。リディアは声をかけた。
「何があったか、ご覧になりましたか」
「見たも何も、そこの蓋から青いのが噴いたのよ。屋根より高く。音がして、地面が鳴って」
女は袋を抱え直した。
「でもね、坂には誰もいなかったの。騎士さんたちが朝から縄を張ってたから。朝の鐘の前よ。うちが窯に火を入れる頃には、もういたもの。荷車は全部、水路の方へ回されて。何の工事かと思ってたら、これでしょう」
「朝の鐘の前から」
「そう。うちの人なんか、粉を運ぶのに遠回りだって文句を言ってたくらい」
リディアは礼を言って、縄の方へ歩いた。ギルベルトが半歩前に出た。
縄の手前の騎士に、リディアは名乗った。
「魔導院のリディア・エルフォードです。お仕事の邪魔はしません。二つだけ伺えますか。噴き出した時、坂に人はいましたか。怪我をした人は」
若い騎士はギルベルトの方を一度見てから答えた。
「噴出の時には、指定された区域の通行は止め終えていました。今のところ、怪我人の報告はありません。それ以上は、詰所の発表を待ってください」
「指定された区域、というのは」
「坂の中ほど、点検口の周りです。……詰所の発表を待ってください」
騎士はそれきり口を閉じた。リディアはもう一度礼を言って、縄から離れた。
坂の中ほど、点検口の周り。昨日の夕方、面会室で聞いたのと同じ場所だった。
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院に戻ると、リディアはその足で文書の窓口へ行き、今日の魔法網の事故の記録を閲覧したいと請求した。文書係は受付台帳に番号を書き、魔法網の管理部からの報告が上がるまで数日かかると言った。
研究室に戻ると、ユリウスが作業台の端を空けてくれた。
リディアは帳面を開き、昨日の行の下に今日聞いたことを足した。通行止めは朝の鐘の前から。負傷の報告なし。院の告知は事故の後。
「試験の時と同じ? あの時も、騎士が来るのがやけに早かっただろ」
ユリウスが帳面を覗いて言った。
リディアは少し考えた。
「事故としては違います。試験の時は院の教材の写し違いで、今日のは魔法網の点検口です。同じ欄に書いたら、どちらの原因も分からなくなります」
試験事故の欄と今日の欄の間に、線を一本引いた。
それから、線の両側に一つずつ同じ言葉を書いた。事前の手配あり。
試験の日、演習場には呼ぶより早く騎士が駆けつけた。今日、坂には告知より先に縄が張られていた。
ユリウスが小さく息を吐いた。
「昨日の、当たったね」
「当たりました」
坂の名も、蓋の位置も、日も、面会室で聞いたとおりだった。
「でも、どうして知っていたのかは、まだ分かりません」
リディアは帳面の最後に一行を足した。前日の警告と、場所・日・現象が一致。どこから知ったかは不明。ペンを置いても、指先はまだ少し冷たかった。
縄の手前に立っていた騎士たちの顔を思い出した。疲れた顔だった。夜明け前から立っていた人の顔だった。
騎士たちは、事故の前からそこにいた。




