第三十話 明日はだめだ
返事は翌朝、ギルベルトを通じて届いた。今日の夕の鐘のあと、面会室で。
昼のあいだ、リディアは研究室で管理官に出す計画書の写しを清書していた。半分ほど進んだところで、ペンを置いた。
「ユリウス。北門の手前の古書通りに、古い測量図を扱う店があると言っていましたね」
「言ったよ。北の遺跡のあたりの古い地誌があるかもしれないって。そのうち行こうって話」
「今日の面会で、明日そこへ行くかもしれない、と言ってみようと思います」
ユリウスが顔を上げた。
「行くの?」
「行きません。明日は清書の続きがあります」
リディアは昨夜考えたことを話した。北門の外が閉じられたのは、遺跡のせいなのか、自分が門を出ることのせいなのか。まだ決めていない行き先を聞いた時、彼が何をするのかを見たい。
ユリウスは黙って聞いていた。聞き終えると、ペンの尻で作業台を二度叩いた。
「止められても、それで何か分かったことにはならないよ」
「分かっています。北門のあたりのことを何か聞いている人なら、誰でも止めます。それに、一度しか使えません」
「なら、一つだけ」
ユリウスは少し言いにくそうにした。
「行かないって、最後に必ず言って。行くつもりのない場所のために、あの人に何か手配させるのは駄目だ」
リディアは頷いた。それが一番、自分でも気になっていたことだった。
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面会室には、灯りが一つ入っていた。
アレクシスは卓の向こうに座り、ローランが扉の脇の壁際に立っていた。茶器はない。卓の上には、リディアが昨日書いた手紙が開いて置いてあった。
「北の件は、読んだ」
アレクシスが先に言った。
「審査が通ったことも聞いている。計画に不足があるとは思っていない」
「では、なぜ北門の外を」
「北門の外は、今は駄目だ」
それ以上は続かなかった。リディアは待った。アレクシスは卓の上の手紙を見ていた。
「新しい危険の情報があるなら、伺えば計画を見直します。手紙にもそう書きました」
「分かっている」
「分かっていて、理由は言えないんですね」
「……もう少し待ってくれ」
リディアは膝の上で指を組んだ。ここまでは手紙に書いたとおりの話だった。
息を一つ整えてから、言った。
「北門の外へは出ません。でも明日、北門の手前の古書通りへ行くかもしれません。古い測量図を扱う店があると聞きました。まだ決めてはいませんけれど」
答えは、こちらが言い終わる前に来た。
「明日はだめだ」
声は低かったが、迷いがなかった。
「粉屋坂を使うな。古書通りへ下りる坂だ。中ほどに、地下の点検口の蓋がある。その周りに近づくな。行くなら東の水路沿いを回れ。坂の上から見下ろすのもやめろ」
壁際で、ローランが顔を上げたのが目の端に見えた。
坂の名前。蓋の位置。回り道。何も聞かれていないのに、彼は全部を一息で言った。
リディアは口を開いた。考えていた問いは、どうしてそれを知っているのか、だった。
けれど出てきたのは、別の言葉だった。
「どうして、あなたが決めるんですか」
アレクシスがこちらを見た。
言ってから、リディアは自分の声の強さに驚いた。行き先を口にしたのは自分だ。反応を見たいと思ったのも自分だ。それなのに、行き先を先に決められた瞬間、胸の奥で古いものが立ち上がった。十年、夫の決めた席に座り、夫の決めた日に出かけ、夫のいない屋敷で待った。
「北門の外も、坂も、どこへ行くかを、どうしていつもあなたが先に」
声が詰まった。
アレクシスは何も言わなかった。言い返しもしなかった。手袋の指が、卓の上で一度だけ握られて、開いた。
リディアは息を吐いた。言ってしまった言葉は、戻らなかった。
「……理由を、聞かせてください。その坂の、何が危ないんですか」
「点検口の下の術式が、表に出るかもしれない」
「かもしれない、というのは」
「確かではない。何も起きないかもしれない」
「では、どこからそれを」
アレクシスは口を開きかけて、閉じた。
「……それは、今は話せない」
彼は一度、卓の上の手紙に目を落とした。
「言えないことを言っているのは分かっている。君が怒るのも分かる。それでも、明日あそこを通らないでくれ。頼む」
頼む、という言葉を、彼の口から聞いたのは初めてだった。前世を通しても、たぶん。
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リディアは膝の上で組んだ指をほどいた。
「その坂へは行きません。古書通りにも、明日は行きません。研究室で清書をしています」
アレクシスの肩から、わずかに力が抜けた。
「ですから、私のために護衛を増やしたり、道に人を置いたりはしないでください。私は行きませんので」
「……分かった」
彼の返事はそれだけだった。北の件も、坂の件も、それ以上は何も出てこなかった。
面会室を出て、本館の廊下を歩いた。
掲示板の前で足を止めた。院の告知と、王都の触れ書きの写しが並んでいる。魔法網の点検の知らせは、いつもここに貼られる。リディアは端から順に見ていった。
粉屋坂の名は、どこにもなかった。
研究室に戻り、帳面を開いた。
面会室、夕の鐘のあと。騎士団長より、明日、粉屋坂の使用を避けるよう指示。坂の中ほどの点検口の蓋の周り。理由、点検口の下の術式が表に出るおそれ。確かではない、どこから知ったかは今は話せない、とのこと。院の掲示、王都の触れ書きに該当の告知なし。
そこまで書いて、ペンが止まった。
自分が何と言い返したのか。その一行が書けなかった。行き先を試すように口にしたことも、書けなかった。書けば、自分が何をしたのかが字になって残る。
頼む、と言った声が、まだ耳に残っていた。
リディアは帳面を閉じた。明日の公の記録と、今日の行を照らし合わせる。それだけは決めた。
彼が言ったのは、院の掲示にも触れ書きにもない、明日の危険だった。




