第二十七話 僕らの仕事
翌日、研究室の扉を開けると、ユリウスが作業台に突っ伏していた。
「おはようございます」
「……おはよう」
顔を上げないまま返事をした。作業台の上に走り書きの紙が何枚も散らばっている。リディアは鞄を置いて、一枚を拾った。線が二重に重なった図だった。
「眠れなかったんですか」
「眠れたよ。眠れたけど、朝から三人に言われた」
ユリウスはようやく顔を上げた。目の下が少し赤い。
「廊下で一人。書庫で一人。食堂で一人。昨日の舞踏会、見たぞって。公爵閣下と張り合うなんて度胸があるなって」
リディアは紙を置いた。
「張り合う」
「君と一曲踊っただろ。そのあとに公爵閣下が踊っただろ。そしたら、そういう話になるらしい。平民の研究員が伯爵令嬢と組んで、王宮で発表して、踊って。公爵閣下は婚約を断られてて。皆、話の形を作るのが好きなんだ」
ユリウスは椅子の背にもたれ、天井を見た。
「書庫の人なんて、残念だったなって言ったよ。何がだよ」
リディアは何と言えばいいのか分からなかった。
ユリウスは天井を見たまま、指で作業台を叩いた。
「腹が立つのは、そこじゃないんだ。噂されるのは別にいい。腹が立つのは、一昨日の発表が、その話の前置きにされてること」
ユリウスの声が少し低くなった。
「三人とも、発表の中身は一言も聞かなかった。折り返しの位置の話も、模型の話も。君が壇の上で共同研究者って言ったことも、平民の研究員が伯爵令嬢に気に入られた話の一場面になってる。僕らの研究が、誰かの恋の話の飾りにされてるんだ」
「……はい」
「それは困る。すごく困る」
ユリウスは体を起こして、リディアをまっすぐ見た。
「だから、次の共同研究の分担を決めたい。今、ここで。紙に書いて、室長に出して、受理の判をもらう。僕が何を担当して、君が何を担当するのか。誰が見ても分かる形にしたい」
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リディアは作業台の向かいに座った。
噂のことは、リディアの耳にも少しは入っていた。院の廊下で、知らない研究員がこちらを見て何か囁いていた。昨夜の帰りの馬車で、ミレイユが面白そうに言っていた。あの研究員の子、どうなの、と。
どうなの、と聞かれても、答えはなかった。考えたこともなかった。
「私も困ります」
リディアは言った。
「ユリウスと議論するのは楽しいです。折り返しの位置で言い合った時も、比べる条件を詰めた時も。でも、その楽しさは研究の楽しさで、周りが言うような話ではありません。そういう話にされると、楽しかったことまで別のものに見えてしまう」
ユリウスは少し目を丸くした。それから、ふっと肩の力を抜いた。
「よかった。君にまでそういう顔をされたら、どうしようかと思った」
「そういう顔とは」
「気まずそうな顔。断らなきゃいけないみたいな顔。僕、何も申し込んでないからね。断られる筋合いもない」
「はい。何も申し込まれていません」
「そう。申し込んでるのは、分担だけ」
ユリウスは散らばった紙を集めて、一枚を一番上に置いた。さっきリディアが拾った、線が二重に重なった図だった。
「これ、僕がやりたい課題」
リディアは図を覗き込んだ。
「北の遺跡の壁で、線が重なってるところがあっただろ。古い術式の上に、別の時期の線が刻まれてるところ。奥の新しい線だけじゃない。入口のあたりにも、深さの違う線が重なってる箇所が何か所かある」
「ありました。写す時に、どちらの線か迷ったところです」
「それ。今は、深さと線の癖で何となく分けてる。君は読めば分かるって言うし、僕も半分は勘で分けてる。でも、それじゃ駄目なんだ」
ユリウスは図の上の二重の線を指でなぞった。
「重なった線を、勘じゃなくて、手順で分けたい。誰がやっても同じように、どの線がどの時期のものか分けられる方法。それができれば、どの線が先で、どの線が後か、順番が分かる。いつ、誰が書いたかまでは、別の資料と突き合わせないと分からないけどね。でも順番が分かれば、古い線と後から足された線を、混ぜずに読める」
北の遺跡の帰りの馬車で、帳面に線を引いて左右の欄に分けた時のことを思い出した。同じ欄に書いたら同じ人がやったと思われる、とユリウスは言った。あれを、壁の線そのものでやろうとしているのだ。
「僕の課題。僕がやりたいからやる。君の読みの補助じゃなくて、僕の研究として」
「手順が要ることは分かります。でも、私が作るのは難しいと思います」
リディアは素直に言った。
「線を見ると、分ける前に読みが浮かんでしまうんです。浮かぶ前の線を、どう分けるか。その手順を考え出すのは、たぶん私の得意なことではありません」
「知ってる。だから僕がやる」
ユリウスは図の上の一本を指でさした。
「試しに聞くよ。この線、君はどっちだと思う。古い方か、新しい方か」
リディアは図を見た。深さの書き込みと、線の曲がり方。
「古い方です」
「僕は新しい方だと思った。ほら、もう分かれた」
ユリウスは図の横に、二人の答えを並べて書いた。
「どっちが正しいかは、今は分からない。こういうのを、手順で決められるようにしたい」
ユリウスは笑った。報告会の壇の上より、ずっといつもの顔だった。
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その日の午後いっぱい、二人は次回の研究の申請書を書いた。
主題は北の遺跡の採録資料にもとづく、残す術式の構造の続き。研究の担当を、二つの欄に分けた。
一つ目の欄。構造の読み、残す術式の各項の機能の推定。担当、リディア・エルフォード。
二つ目の欄。重なった線の分離の手順の確立。線の前後の順の推定。担当、ユリウス・レインハルト。
その下に共同の欄を作った。二つの結果を突き合わせる検討。相互の検算。
書いている途中で、何度も言い合いになった。分離の手順が先か、構造の読みが先か。ユリウスの手順が出来上がる前に、リディアが読んだ結果を使っていいのか。
「使っちゃ駄目。手順で分けた結果と、君が読んだ結果が、別々に出てから比べる。先に君の答えを見たら、僕の手順が君の答えに寄っちゃう」
「では、私は読んだ結果を書いた紙に封をして、ニコさんに預けます」
「いいね。それ、申請書に書こう」
ユリウスが余白に書き足した。読みの結果は分離の結果が出るまで封をして保管。
夕方の鐘が鳴る頃、申請書は三枚になった。二人で署名を並べて、バルドの室へ持っていった。
バルドは三枚を読み、ユリウスの欄で少し長く目を止めた。
「レインハルト君の課題は、君自身の発案か」
「はい」
「よろしい。受理する」
バルドが判を押した。
研究室へ戻る廊下で、ユリウスが伸びをした。手には、二人の答えが並んで書かれた図を持っている。
「最初は、この一本からだね」
「はい」
廊下の窓の外は橙色に暮れかけていた。
噂の相手ではなく、次の研究の分担が決まった。




