第二十六話 また間違えた
アレクシスが背を向けかけたところで、リディアは声をかけた。
「待ってください」
彼が足を止めた。振り向いた顔は、いつもと同じ静かな顔だった。踊っている間の、あの低い声の主とは思えなかった。
「さっき、何を間違えたんですか」
周りでは次の曲が始まりかけていた。踊りの輪へ戻る人と、壁際へ下がる人が二人の横を行き交う。アレクシスは一度だけ広間の奥へ目をやり、それから壁際の、燭台の少ない一角を示した。
リディアはそちらへ歩いた。アレクシスは一歩離れてついてきた。
壁際に立つと、楽団の音が少し遠くなった。
「さっき、と言われても」
「四度目の回転です。私が足を引かなかった時、あなたは、また間違えた、と言いました」
アレクシスは黙った。
リディアは彼の顔を見ていた。表情は動かない。ただ、手袋の指が一度だけ握られて、開いた。
「……君の足の運びを、先回りした」
「先回り」
「回る前に、君は足を少し引く。そう思って待った。今度は引かなかった。俺が勝手に待っていた。それだけだ」
「それを、どうして知っていたんですか」
「一度目と二度目で、引いていた」
答えとしては筋が通っていた。通らないのは、踊っている時に彼が口にした、また、の一言の方だった。
「私は、あなたと踊ったことがありません」
言ってから、リディアは自分の言葉の中に、もう一つの意味が混じっているのに気づいた。今世だけではない。前世の十年でも、一度もない。
アレクシスはリディアを見た。何かを言いかけたように見えた。口がわずかに開いて、閉じた。
「ああ。知っている」
それ以上は何も言わなかった。
「では、また、というのは」
「言い方が悪かった」
アレクシスは短く言った。説明する気がないのではなく、説明する言葉を持っていない顔に見えた。そう見えただけかもしれない。
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アレクシスが騎士団の誰かに呼ばれて離れていくと、入れ替わりにミレイユが来た。手に二つのグラスを持っている。
「はい。喉が渇いたでしょう」
リディアはグラスを受け取った。果実水だった。
ミレイユは自分のグラスを一口飲んで、横目でリディアを見た。
「ねえ。あれ、本当に初めて?」
「何が」
「公爵様と踊るの。私、柱の横から見てたの。初めてには見えなかったわ。呼吸が合いすぎてた。最後の方なんて、ずっと前から組んでる相手みたいだった」
「初めてよ。前の夜会でも、私は断って帰ったでしょう」
「そうよね。知ってる。だから変だって言ってるの」
ミレイユはグラスの縁を指でなぞった。
「一回ぶつかったでしょう。その時の公爵様の顔、見た?」
「見ていない」
「すごく、しまった、って顔してた。足を踏んだからじゃなくて。なんて言えばいいのかしら。言っちゃいけないことを言った人の顔」
リディアはグラスを持つ手に力を入れた。
ミレイユは、見たものを見たとおりに言う人だった。
「……大丈夫? さっきからグラスを握りしめてる」
「少し、考えたいことがあるの」
「じゃあ、考えて。私、ここにいるから」
ミレイユはそれ以上聞かずに、隣で広間の方を向いた。
リディアは小さな手帳を取り出した。院で使っている、覚え書き用の薄い一冊だった。グラスを窓枠に置き、鉛筆で書く。
回転の前に左足を引く癖。三度目、彼の手はその一拍を待った。四度目、癖が出ず、噛み合わず。「また間違えた」。説明は、一度目と二度目で覚えた、とのこと。説明は成り立つ。未解決、「また」が何と比べての言葉か。
書きながら、手が少し震えた。
最後に一行を足した。
前世でも、踊っていない。
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しばらくして、アレクシスが戻ってきた。
ミレイユはそれを見るなり、急に知り合いを見つけたような顔をして、グラスを持ったまま離れていった。去り際に、リディアの背中を軽く叩いた。
アレクシスは手帳に気づいたようだったが、何も聞かなかった。代わりに、リディアの持つグラスを見た。
「何を飲んでいる」
「果実水です」
「次に何か持ってくるなら、何がいい」
リディアは少し驚いて、彼を見上げた。
「葡萄酒か、茶か、果実水か。分からないから聞いている」
面会室の茶を思い出した。濃い色の、煎りの強い茶。前世の公爵邸の客間に出ていたのと同じ茶だった。リディアはあの茶を十年飲み続けた。好きではないと、一度も言わずに。
「軽い茶が好きです。煎りの浅い、色の薄い方が」
アレクシスは頷いた。
「覚えておく」
それだけ言って、彼は広間の奥へ、本当に茶を取りに行った。
リディアはその背中を見ていた。
前世の十年、彼は一度も聞かなかった。
広間では次の曲が始まっていた。リディアは踊りの輪を見ていた。もう一曲、と言えばよかったのかもしれない。
アレクシスは杯を一つ持って戻ってきた。色の薄い茶だった。
「これでいいか」
一口飲んだ。軽くて、香りがふっと鼻へ抜けた。
「はい。これです」
アレクシスはそれ以上何も言わず、リディアの隣に立った。壁際に並んで、二人で踊りの輪を見た。話すことは何もなかった。それでも、騎士団の誰かがまた彼を呼びに来るまで、リディアは自分からそこを離れようとは思わなかった。
彼の背中が人の間に消えてから、手の中の杯がまだ温かいことに気づいた。
嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
手帳を閉じる前に、もう一度最後の行を見た。
前世でも、踊っていない。




