第二十五話 踊ると決める
その日の夕方、王宮の小広間で舞踏会が開かれた。
成果報告会に招かれた研究者と、王宮に詰める文官や騎士、その家族のための会だった。前に来た夜会ほど大きくはない。それでも燭台の灯りが天井まで揺れ、楽団の音が床から伝わってくるのは同じだった。
リディアは紺のドレスのまま、壁際でミレイユと並んでいた。ミレイユは侯爵家の娘として、別の招きで来ていた。
「あなた、昼より顔が明るいわ」
「そう」
「そうよ。何かいいことがあったでしょう」
リディアは答えずに、果実水のグラスを口へ運んだ。朝の会議のことを話せば、ミレイユはきっと、誰が何を言ったのか全部聞きたがる。それを全部話したら、胸の奥の温かいものがもっと大きくなってしまいそうだった。
楽団が軽い舞曲の前奏を始めた。
人の間を縫って、ユリウスがやって来た。借り物の上着は朝より少しくたびれて見える。襟は相変わらず高い。
「一曲、どう」
「踊れるんですか」
「失礼だな。平民でも踊るよ。村の祭りの踊りだけど」
ユリウスは手を差し出した。リディアは笑ってその手を取った。
ユリウスの踊りは宮廷の型からは少しずつ外れていた。回る時に一拍早く、足を運ぶ幅が大きい。三度目の回転で、リディアの靴の先を踏みかけた。
「ごめん」
「大丈夫です。祭りの踊りでは、もっと回るんですか」
「もっと回る。それで皆で倒れる」
リディアは声を立てて笑った。周りの何組かが振り向いた。かまわなかった。
曲が終わると、ユリウスは大げさに礼をして、汗を拭いながら壁際へ戻っていった。
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息を整えていると、ミレイユが小さく肘で突いた。
リディアが顔を上げると、人の間から黒い上着が近づいてくるところだった。警備の時の上着ではない。仕立ての違う、夜会用の一着だった。
アレクシスはリディアの前で足を止めた。
周りの話し声がはっきりと小さくなった。婚約を断られた公爵と、断った伯爵令嬢。その話を知らない者は、この広間にほとんどいないだろう。
アレクシスは手を差し出した。
「一曲、踊ってもらえないか」
それだけ言って、手を差し出したまま待った。
催促はしなかった。周りの視線にも、何も言わなかった。断ってもいい間が、そこにあった。前の夜会で背を向けた時と同じように、彼は引き止めもせず、ただ待っていた。
リディアは差し出された手を見た。
前の夜会では、断った。一曲目は公爵と踊るものと、父も周りの輪も待っていたからだ。待たれているから踊る。それをしないために、背を向けた。
今は、誰も踊れとは言っていない。父はここにいない。婚約の話もない。
朝の会議室で、彼は最後まで話を聞いた。図と実測を並べて見て、自分の責任で配置の案を変えた。その礼を、もう一度言葉で言うのは難しい。
それに、知りたかった。前世の十年、一度も一緒に踊らなかった人が、どんなふうに踊るのか。
「一曲だけなら」
リディアはその手を取った。
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手袋越しの手は思っていたより温かかった。
楽団が次の曲を始めた。ゆるやかな三拍子だった。
アレクシスの誘導は静かだった。腕で引くのではなく、背に添えた手の向きで行き先を伝えてくる。一歩目、二歩目。リディアが半歩迷うと、彼の足はそれを待ってから進んだ。
近い、と思った。
前世の十年で、これほど近くに立ったことがあっただろうか。食卓の空席の向こう。廊下の先の背中。いつも何歩も先にいた人が、今は胸の前にいる。上着の布の匂いがした。
一度目の回転は何も考えずに回れた。二度目もそうだった。
三度目の回転の前で、リディアは少しだけ驚いた。
彼の手が、まだ自分が踏み出していない方へ、先に向きを変えていた。リディアには癖がある。回る前に、左の足をほんの少し引いてから踏み出す。子どもの頃、踊りの教師に何度直されても抜けなかった癖だ。
彼の手は、その引く一拍を待っていた。待ってから、回す。まるで、その癖を知っているかのように。
上手な人なのだ、と思おうとした。相手の足をよく見ているだけかもしれない。一度目と二度目の回転で、気づいたのかもしれない。
四度目の回転で、リディアは足を引かなかった。
癖を意識したせいだった。いつもの一拍を飛ばして、そのまま踏み出した。
彼の手はまだ待っていた。
二人の足が一瞬だけ噛み合わなかった。リディアの肩が彼の腕にぶつかり、裾が彼の靴に触れる。
「……また間違えた」
低い声だった。リディアに言ったのか、自分に言ったのか分からない。
彼の手から、すぐに力が抜けた。背に添えた手がさっきまでより軽くなる。彼の歩幅が少し狭くなり、リディアの歩幅に合わせ直された。
五度目の回転では、彼の手が先に回らなかった。リディアが踏み出してから、それについてきた。
曲が終わった。
アレクシスは手を離し、一歩下がって礼をした。
「ありがとう」
リディアは礼を返した。顔を上げた時、彼はもう背を向けかけていた。
胸が速く打っていた。踊ったからだけではなかった。
楽しかった。背に添えられた手の軽さも、待ってくれる足も、近くで聞こえた息の音も。曲がもう少し長ければよかったと思って、そう思った自分に驚いた。
けれど四度目に足が噛み合わなかった時、彼は「また」と言った。
前世の十年、彼は一度もリディアを踊りに誘わなかった。夜会では、いつも別々の場所に立っていた。胸の奥で、言葉がひとりでに形を作った。
踊ったことのない夫が、踊り方を知っている。




