第二十一話 私たちの成果
北から戻って半月あまりが過ぎた日の昼、検証室の作業台に真鍮の小皿が二枚並んでいた。
左の皿には、残す術式の構造を小さく写した線が描いてある。受け取る項、通す項、溜めて形を写し取る構造、折り返し、渡しかけ。渡しかけの線の先は皿の縁を越え、細い銅線で右の皿へつないである。
右の皿に描いたのは、遺跡の線ではなかった。院の教本に載っている、流れの通り道を皿の面に焼き付ける記録用の線だ。遺跡の術式が何をどこへ渡すのかは、まだ分からない。だから渡す先だけを、知っている受け皿に置き換えた。保存の仕組みのうち、写して渡す部分だけを取り出した模型だった。
「流すよ」
ユリウスが供給器の目盛りを一番低いところに合わせた。ニコが測温の針を左の皿の縁に当てる。
リディアは細筆の先に墨を含ませ、左の皿の受け取る項の手前に小さな鉤の形を描き足した。流れをそこで一度曲げるための印だった。
線が橙に灯った。灯りは鉤のところで曲がって受け取る項へ入り、通す項へ進み、溜める構造で一度膨らんで、折り返しを回って渡しかけへ抜けた。銅線の先で、右の皿の受ける線が淡く光る。その光の中に鉤で曲がった流れの道筋が同じ形で浮かんだ。
「写った」
ニコが小さく声を上げた。
リディアは左の皿の鉤を布で拭き取った。左の皿の流れはまっすぐになり、曲がりが消える。右の皿には、曲がった道筋が残っていた。
ユリウスが供給器を切った。右の皿の光が薄れるまで、三人は黙って見ていた。光が消えたあとも、墨のない皿の上に、焦げたような鉤の形の跡が一つ残っていた。
リディアは皿に顔を近づけた。指で触れようとして、熱を思い出して手を引っ込めた。紙の上で何度も組み立てた構造が、自分たちの描いた鉤を覚えている。
「残ってる」
ユリウスの声が裏返った。
「残ってます」
「残ってるよ。拭いたのに」
ユリウスは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、皿を覗き込んで、それからリディアを見た。リディアも笑っていた。いつ笑い出したのか、自分でも分からなかった。測温の針を持ったまま、ニコまでつられて笑った。
「通った流れの形を写して、渡した先に残す。……再現できた」
ユリウスがそう言って、背もたれのない椅子に座り込んだ。座り込んでからも、しばらく皿から目を離さなかった。
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公開の報告をまとめるのに、それから四日かかった。
二日目の夕方、リディアは自分の原稿を読み返していて、一行で手を止めた。
折り返しは、溜める構造の直後に置く必要がある。
その一行の横には模型の記録の番号が添えてある。直後に置いた皿で、写った記録。根拠は書いたつもりだった。けれど記録が示しているのは、直後に置けば写るということだけだった。他の位置では写らないとは、どこにも書いていない。
「ユリウス。この行、言い切りすぎています」
ユリウスが自分の机から顔を上げ、原稿を覗き込んだ。少し読んで、頷く。
「うまくいった例が一つあるだけだね。必要だって言うなら、置かなかった時と比べないと」
「位置を変えて比べます。手前と、後ろと」
「なら条件を揃えよう」
ユリウスは紙を一枚引き寄せて、書きながら言った。
「皿も墨も鉤の大きさも揃える。描くのは毎回僕。君は、どの位置で何が起きると思うか、先に書いて畳んで、ニコさんに預けといて」
リディアは予想を書いて折り、ニコに預けた。
翌日、ユリウスが三組の皿を描いた。溜める構造の直後に折り返しを置いたもの。一つ手前に置いたもの。一つ後ろに置いたもの。
一つ手前の皿では、右の皿に何も写らなかった。一つ後ろの皿では写ったが、鉤の先が溶けたように丸くなった。直後に置いた皿だけが、曲がりを形のまま写した。
ニコが預かっていた紙を開いた。リディアの予想と同じだった。ユリウスが結果を書き込み、原稿の一行を直した。
試した三つの位置のうちでは、溜める構造の直後に置いた場合だけ、流れの形を崩さずに写した。
「言えるのは、ここまでだね」
「ここまでで十分です」
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小報告会は研究棟の講義室で開かれた。
十人ほどの研究員が長椅子に座っていた。バルドが前の端に立ち、ニコが作業台の横で皿と供給器を並べている。
リディアは原稿を手に、残す術式の構造と、写して渡す部分を再現した模型を説明した。何をどこへ残すのかは、まだ分からないことも。
説明を終えると、二列目の年長の研究員が手を挙げた。
「院に入って数か月の新入りが、北の遺跡の構造を読み解いた。それはそれで結構だが」
研究員は原稿の写しを指で弾いた。
「北の写しは、兄上からの借り物だと聞く。兄上は院でも名の通った方だ。読み解いたのは本当にあなたかね。写しと一緒に、答えまで借りたのではないか」
講義室が静かになった。
リディアは原稿を置いた。
「兄から借りたのは写しです。出所と、兄から受けた公開の了承は、原稿の最初の頁にあります。構造の読みは、写しと私たちの採録を比べて組み立てました」
「読みが正しいことと、あなたが読んだことは別だ」
「はい。ですから、作業の記録をご覧ください」
ニコが作業台の下から綴りを二つ出した。一つは兄の写しそのもの。もう一つは研究室の作業記録だった。
研究員は兄の写しをめくった。壁の線を写した頁が続くだけで、読みの書き込みはどこにもない。それから作業記録を開いた。日付ごとに、読みの仮説と、その書き直しが並んでいる。仮説の字はリディアのもの、試験の条件の字はユリウスのもの。どの頁の端にも、ニコの立会いの印があった。
ユリウスが立ち上がった。
「構造を読んで、何を比べるべきかを決めたのは彼女です。比べる条件を決めて、三組を描いて流したのは僕です。配線は二人で。立会いと記録は、ニコさんがしてくれました」
研究員はしばらく作業記録の日付を追っていた。それから綴りを閉じた。
「誰が読んだのかは、この記録で分かった。兄上の写しには、写しがあるだけだ」
研究員は作業台の前へ来た。
「だが、読みが正しいかは別の話だ。手順のとおりに、私がやってみてもいいかね」
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ニコが手順の紙を渡した。研究員は眼鏡を押し上げ、紙を読みながら皿に線を描いた。筆の運びは慣れていて、リディアより速かった。銅線をつなぎ、鉤の印を描き、供給器の目盛りを合わせる。
線が灯った。右の皿に曲がった道筋が写った。研究員が左の皿の鉤を拭うと、右の皿には跡が残った。
研究員は折り返しの位置を一つずらした皿も、手順の紙どおりに描いた。右の皿には何も写らなかった。
研究員はしばらく皿を見下ろしていた。それから手順の紙をニコに返した。
「示された条件では、手順は通る。さっきの言い方は撤回する。失礼した」
バルドが前の端で帳面に何かを書きつけた。
「再現を確認した。この報告は研究室の共同研究として受理する。筆頭はエルフォード君でいいかね」
リディアは少し考えた。
「順番はどちらでも構いません。名前の横に、それぞれの担当を書いてください。さっきレインハルトが言ったとおりに。ニコさんの名前も」
「担当まで書くのかね」
「次に誰かが追試する時、どこを誰に聞けばいいか分かります」
バルドは髭の下で口元を緩め、帳面に書き足した。
さっき研究員の手で右の皿が光った時、リディアは自分の名前が前に出ることより、ずっと嬉しかった。自分の頭の中にしかなかったものが、別の人の手の中でも同じ形に残った。
バルドが帳面を閉じた。
「それから、この報告は院から王家の成果報告会へ上げる。今期の研究室の推薦はこれにする」
ユリウスが口を半分開けたまま、リディアを見た。
成果報告の次の会場は、王宮だった。




