第二十話 譲らない部分
三日後の昼の鐘のあと、バルドの室に兄が来た。
リディアが呼ばれて入っていくと、兄は窓際の椅子に座り、バルドと向かい合っていた。卓の上に一枚の書類が置いてある。院の用箋ではなかった。上の端に王家の紋が小さく刷ってある。
「座りなさい」
バルドが言った。兄は妹の顔を見て、少しだけ笑った。
「北の報告書のことは聞いた」
「どこで、ですか」
「院の中のことだ。私の耳にも入る」
答えは早かった。兄はいつもそうだった。こちらが問い終わる前に、答えが返ってくる。
兄は書類をリディアの方へ滑らせた。
「王家の指定がかかった研究には、管理の枠がある。その枠に入れば、指定のかかった記録も、資料庫の奥の綴りも、許可を得て読める。設備も人も回ってくる。お前の研究は、今よりずっと進む」
リディアは書類を手に取った。王家指定研究への協力同意書、とある。
兄の言うとおりだった。この紙に名前を書けば、別綴じになったあの一行も、奥の保管庫の古い綴りも読める。北の遺跡の奥の壁へ、許可を得て行けるかもしれない。気がつくと、指先が紙の端を強く押さえていた。
読み進めると、条項はどれも、同じ言葉に行き着いていた。閲覧は、管理の側の許可による。公表は、管理の側の承認を経る。成果の帰属は協議により、整わない場合は、管理の側の判断による。
「管理の側とは、どなたですか」
「王家の名で研究を預かっている部署だ。名前は、署名したあとで知らされる」
リディアは書類を卓に戻した。
「この紙に署名したら、私が何を読めるかも、何を発表できるかも、私ではない誰かが決めます。その誰かの名前を、署名する前に知ることもできません」
「私が勧めているんだ」
「兄様を疑っているのではありません。紙に書いてあることを読んでいるだけです」
兄の目がわずかに細くなった。
「お前は、自分に何が起きたのか分かっているのか。奥の仕掛けが、お前に反応したかもしれないんだろう。王家の管理の下なら、お前は守られる。私も安心できる」
リディアは兄の顔を見た。奥の光のことを、兄に話した覚えはなかった。報告書のあの一行は、閲覧版から外されている。院の中のことだと、兄はさっき言った。
どうして知っているのか。その問いも、今は口にしなかった。
「守られることと、全部を預けることは違います」
リディアは書類の上に指を置いた。
「読みたいものは、全部この紙の向こうにあります。それは分かっています」
声が少し揺れた。リディアは息を整えた。
「私に関わる観測記録の扱いは、もう指定に従っています。どの項目に同意するのか、一つずつなら考えます。でも、研究の全部をまとめて預ける同意は、お受けできません」
兄はしばらくリディアを見ていた。それから書類を取り上げ、丁寧に二つに折った。
「考えておけ。急ぐ話ではない」
立ち上がる時、兄は一度だけ額に手を当てた。
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扉が閉まると、バルドが棚から厚い綴りを下ろした。院の規程集だった。
「指定の扱いは、ここにある」
バルドは頁を繰り、指で一つの条を押さえた。
「指定の効力は、指定書に記された範囲と、その複写に及ぶ。範囲の外の記述は、院の研究成果として扱う。……つまり、指定書にない部分まで王家へ渡す義務は、どこにもない」
リディアは鞄から、最後の頁を除いた控えと、観測の頁を外した帳面と、窓口で印をもらった写しを出した。バルドが卓の上に二枚の白紙を置く。
「分けてみなさい。公開できるものと、指定に従うものと」
リディアは一つずつ書き出した。
左の紙には、残す術式の構造と、末尾の一行の字形と、入口の図形。右の紙には中身を書かず、調査者本人に関する観測部分と、二つの番号だけを書いた。
書き終えて見比べると、左の紙はほとんど埋まり、右の紙には余白ばかりが残った。
「あなたの反応は、指定に従う。それは私も破らせない」
バルドは右の紙を指で叩いた。
「だが、研究の全体を王家へ渡す必要はない。左は、あなたとレインハルト君の仕事だ。公開の報告にまとめていい」
「兄の写しから読んだ部分もあります」
「出所は記録どおりに書きなさい。それとは別に、借りた時の条件を確かめること。管理印が院のものではない。出所を書いたからといって、公開してよいとは限らん」
窓の外の日が少し傾いていた。
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その日の夕方、伯爵邸に戻ると、兄は先に帰っていた。
食堂へ下りる前に、廊下の角で行き合った。
「兄様。北の写しのことで、一つ確かめたいことがあります。あの写しから読んだ構造を、院の公開の報告に使ってもいいですか」
「構わない。古い調査の写しだ。公開を止める条件はついていない」
やはり答えは早かった。
「では、それを一筆いただけますか。報告に添えます」
兄は少しだけ眉を上げ、それから懐の手帳を一枚破って、壁に当てて書いた。北の遺跡の写し、院での公開報告への使用に差し支えなし。名前を書き、紙をリディアに渡す。
紙を受け取る時、灯りの下で兄の顔が見えた。昼に見た時よりも白かった。目の下が薄く翳っている。
「兄様。顔色が悪いです」
「そうか」
「眠れていないんですか」
兄は少し間を置いた。昼の、早すぎる答えとは違う間だった。
「夢を見る。目が覚めると、何の夢だったか覚えていない。それだけだ」
「いつからですか」
「さあな。気にするほどのことではない」
リディアは兄の腕に手を添えた。上着の袖越しにも、腕が少し冷たかった。
「温かいものを部屋へ運ばせます。今夜は書類を読まずに寝てください」
「お前は母上に似てきたな」
兄はそう言って、ほんの少しだけ笑った。それからリディアを見下ろした。
「昼の話は、考え直したか」
リディアは手を離さなかった。
「心配はしています。でも、同意書の返事は変わりません」
兄は何も言わずに、リディアの手を軽く叩いて離れていった。廊下の先で一度だけ立ち止まり、壁に手をついて、それからまた歩き出した。
あの書類の下にいれば安心だと、兄は言った。
安心だと言った兄が、眠れていない。




