第十七話 残すための術式
日はまだ高かったが、リディアは入口の段から立ち上がり、写しの束を箱へ戻した。
「今日はここまでにします。整理は帰りの馬車でしましょう」
ユリウスが通路の奥を振り返った。
「入口のこっち側で、もう写した紙だけ並べるのも駄目?」
「奥が止まったかどうか、ここからは確かめられません。紙なら大丈夫だという証拠もまだありません」
言いながら、自分にも言い聞かせていた。入口の内側の壁には、まだ見直したい線がある。いま振り向けば、たぶん読める。
ユリウスはしばらく黙ってから、箱の蓋を閉めた。
「……そうだね。確かめられないなら、ここにいる理由がない」
ギルベルトが馬を引いてきた。
「出発でよろしいですか」
「お願いします。誰も中へは戻りません」
ギルベルトは一度だけ入口の暗がりに目をやり、それから御者に合図した。
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丘を一つ越えて遺跡が見えなくなってから、ユリウスが箱を開けた。
二人は揺れる座席に兄の写しと今日の帳面を広げた。壁ではなく紙だけを見る。
受け取る項。通す項。その先の、溜めて形を写し取る構造。石の陰から出てきた折り返しと、外へ渡しかける形。地下の遺構の写しで途切れていた先が、ここでは少しだけ続いている。
紙の上の線を追っても、何も光らない。当たり前のことなのに、リディアは一項読むたびに窓の外を見た。
「この構造、壁を保つ術式じゃないな」
ユリウスが言った。
「壁を保つなら、力を回し続ければいい。これは回してない。溜めて、写し取って、渡しかけてる。形を移す先がある」
「何かを壊れないところへ移そうとしているんだと思います」
リディアは折り返しの項を指で押さえた。
「通ったものの形を写し取って、別の場所へ渡す。壁が壊れても、渡した先には残る。これは……」
言葉を探した。
「残すための術式です」
ユリウスは帳面に書いた。残す術式、仮称。機能、通過したものの形を写し取り、別所へ渡して保存する、と推定。
「何を残すのかは」
「分かりません。渡す先も、ここまでの線には書いてありません」
「誰に残すのかも」
「分かりません」
ユリウスは推定の行の下に、不明を二つ足した。
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術式の末尾は入口の内側の壁にあった。
円と三本の線の図形の、すぐ上だった。入る時に一度写してあったが、その時は図形に気を取られていた。リディアは自分の写しを見直した。
最後の数行だけ、写した線の様子が違っていた。
それまでの線は浅く細く、同じ深さで刻まれていた。写しにもその揃い方がそのまま出ている。最後の数行は、自分の写した線まで揺れていた。壁の溝が揺れていたから、なぞった手もそれに従ったのだ。欄外には、写しながら書きつけた覚え書きが残っている。深浅あり。刻み直しあり。
震えている、とリディアは思った。
乱れた数行の中に、術式の線でないものが一行混じっていた。
項の形をしていない。流れのどこにもつながっていない。古代の文字で書かれた、言葉の一行だった。
ところどころが欠けていた。石の表面が剥がれたのか、最初から刻み切れなかったのか、溝が途中で途切れている。形が分かる字は三つしかなかった。
初めの字は、古代の文字で「次」とも「後」とも読める形だった。その下に小さな添え字が一つついているが、読み方までは分からない。終わり近くの一つは、人を指す字に似ていた。
リディアは形の分かる字だけを帳面に写し、欠けたところは欠けたまま空けた。
「埋めたくなる?」
覗き込んだユリウスが聞いた。
「なります」
正直に言った。欠けた溝の形を見ていると、そこに何かが入りそうな気がする。けれど待っても言葉にはならなかった。続きがあることは分かるのに、どんな語なのかは掴めない。
「でも、まだ字になりません。字になったとしても、それは私が考えた字です。原文の欄には見えた形だけを書いて、浮かびかけたことは別の行にします」
ユリウスは頷いた。リディアは空けた行の下に、補わない、とだけ書いた。
書いてからも、目は欠けた溝の写しへ戻った。三つの字のあいだの、空いた升へ。
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ユリウスは帳面の新しい頁に線を一本引いて、二つの欄を作った。
「左は古い方。この遺跡に元からある術式と、末尾の一行と、図形。右は新しい方。奥の、後から足された線と、光ったこと」
「古い書き手が光る仕掛けを作ったのか、後から誰かが足したのか、まだ分かりませんものね」
「そう。同じ欄に書いたら、読んだ人は同じ人がやったと思う」
リディアも自分の帳面に同じ線を引いた。
院に着いたのは、廊下に灯りが入る頃だった。
研究室で今日の写しを数えて封をし、三人の名前を並べた。
伯爵家へ帰る馬車の中で、リディアは膝の上の帳面を開かずに、表紙だけを見ていた。
欠けた一行。形が分かったのは三つの字だけだった。次か、後。小さな添え字。それと、人に似た字。
目を閉じると、知らない誰かの手が浮かんだ。冷たい石の前で、思うように動かない指に力を込め、最後の一行を刻んでいる手。見たわけではない。自分がそう思い描いているだけだ。
それでも、一つだけは分かる気がした。
書き手は、誰かに何かを残そうとしていた。




