第十六話 読む前に分かる
石をどけた先の壁は通路の奥へ向かって続いていた。
最初の広間の手前までが届け出の範囲だった。先頭のギルベルトが提げ灯りを掲げ、通路の先を照らす。リディアとユリウスはそれぞれ小さな手灯りを持ち、壁を照らしながら後に続いた。光の届く端に広間の口らしい暗がりがある。そこまで、あと二十歩ほどだった。
二人は壁を読みながら進んだ。一項進むたびに、リディアは次の項を紙に書いて折り、二人の名前を重ねてユリウスに預けた。ユリウスは壁を確かめてから開け、帳面に一致と書く。四度続けて、一致だった。
五度目の紙を書いていた時、ユリウスが手を止めた。
「待って」
ユリウスの目は壁ではなく、通路の奥へ向いていた。
広間の口の手前の壁に、ほんのわずかな光があった。灯りの反射ではない。石の溝の中から青白いものが滲んでいる。一呼吸のあいだ見えて、消えた。
「今の、見た?」
「見ました」
リディアは自分の手灯りを下げ、奥へ目を凝らした。光が消えたあたりの壁には、自分たちが読んでいる線とは違う線が刻まれていた。溝が鋭く、縁が欠けていない。周りの古い線と比べて、刻まれてからの年月が浅く見えた。
「あれは古い術式じゃない。後から誰かが足したものだ」
ユリウスが低く言った。それから自分の帳面を閉じた。
「記録をいったん止める。確かめたいことがある」
ユリウスはリディアの方を向いた。
「さっき光った時、君は何をしてた」
「次の項を紙に書いていました」
「書く前に、頭に浮かんでた?」
「はい。書きはじめる少し前に」
ユリウスは少し考えて、壁の次の項を指さした。
「もう一度やって。ただし今度は書かないで。浮かんだと思ったら手を挙げるだけ。僕は奥を見てる」
リディアは壁に目を戻した。次の項を読むと、続きが来る。手を挙げた。
奥の壁が、また滲むように光った。
「今度は壁から目を逸らして。何も読まないで」
リディアは通路の天井を見た。ユリウスが奥を見ている間、何も読まずに三十まで数えた。光らなかった。
「読んで」
壁へ目を戻す。次の項。来た、と思って手を挙げかけた時には、もう奥が光っていた。
ユリウスは帳面を開いて短く書いた。それから書いた行を指で押さえたまま、しばらく黙っていた。
「三度とも、君が浮かんだって言った読みの最中に光ってる。でも、浮かんだ瞬間は僕には見えない。見えたのは光だけだ。だから、こう書く」
帳面には、見えたことだけが短く並んだ。光った三度と、光らなかった三十数えるあいだ。
書き終えても、ユリウスは顔を上げなかった。
「君が先を読むと、あれが反応してる。……ように見える」
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光の消えた広間の口を、リディアはしばらく見ていた。
あそこまで行けば、奥の壁が読める。この術式が何を溜めて、どこへ渡すのか。地下の遺構の写しで途切れていた続きが、たぶんこの先にある。二十歩だった。
足元の壁の項は、今も目の端にあった。見ないようにしても、見えている線の形から次が組み上がりかける。読みたいと、体のどこかが言っていた。
けれど二十歩近づけば、あの光も強くなるのかもしれない。何のために足された線なのかは分からない。分からないものが、自分の読む動きに合わせて光っている。
「中止」
声は思ったより落ち着いていた。
ギルベルトがすぐに振り向いた。
「中止です。ここから先は読みません。全員、入口へ」
「承知しました」
ギルベルトは提げ灯りを持ち替え、通路を一度だけ奥へ照らしてから、リディアとユリウスの後ろへ回った。
「お二人が先です。自分が最後に」
リディアは写しの束を胸に抱え、手灯りを足元へ向けて歩いた。通路の壁にも線がある。目を上げれば読んでしまう。前を行くユリウスの背中と、その先の白い四角だけを見た。
石をどけたあたりを過ぎた時、ユリウスが歩きながら一度だけ振り向いた。足は止めなかった。
「……まだ光ってる。さっきより弱い」
リディアは振り向かなかった。自分はもう読んでいない。それでも光っている。
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入口の白い四角が大きくなり、外の光が足元まで届くところで、三人は止まった。
ギルベルトが入口の外まで一度出て、斜面の上と下を確かめてから戻ってきた。
「外に異常はありません」
ユリウスは入口の脇の段に立って、通路の奥へ目を凝らした。
「見えない。光ってるとしても、ここまでは届かない」
リディアは入口の段に腰を下ろした。膝の上で写しの束が重かった。手灯りを置こうとして、指がうまく開かないことに気づいた。
ユリウスが帳面を開いた。退避中のことを書こうとして、ペンが止まる。
「離れたら弱まった、でいいのかな」
「それだと足りません」
リディアは自分の帳面を開いた。
「弱まった時、私はもう読むのをやめていました。離れたのと読むのをやめたのが同時です。どちらで弱まったのか分けられません。入口から見えないのも、止まったからなのか、届かないだけなのか分かりません」
ユリウスはペンの先でリディアの帳面の字を追い、頷いた。
「じゃあ、分けられないって書こう」
二人の帳面に同じ行が並んだ。
リディアは入口の暗がりを見た。
奥の新しい線は、誰かが後から足したものだ。それが、自分が先を読むたびに光ったように見えた。偶然かもしれない。けれど、そう言い切れるほどのことを、自分は何も知らなかった。
「報告します」
ユリウスが顔を上げた。
「私が読んだことが、あの光と関係しているかもしれない。それを報告に書きます。私の名前で」
「君が狙われてるって書くことになる」
「狙われているかどうかは分かりません。でも、関係していないと書く根拠もありません」
ユリウスはしばらく黙っていた。それから帳面の欄を指で叩いた。
「見たことと、君が言ったことを分けて書く。それ以上は書かない」
リディアは頷いた。
入口の外では日がまだ高かった。風が斜面の草を鳴らしている。
リディアは自分の手を見た。
指はまだ、うまく開かなかった。




