第十五話 入口の約束
朝の鐘が鳴り終わる前に、院の馬車は王都の北門を抜けた。
古い馬車だった。座席の下に写しの箱と灯りの油、紙と炭の束が詰めてあり、揺れるたびにどこかで瓶が鳴る。向かいの席でユリウスが北の遺跡の写しを膝に広げ、前日の夕方にリディアがつけた印を一つずつ指で確かめていた。地下の遺構の写しは院に置いてきた。比べる箇所は覚え書きにしてある。
窓の外を馬に乗ったギルベルトがついてくる。
「いつもは荷馬車の隅に乗せてもらうんだ。帰りは歩く。こんな贅沢な調査は初めてだよ」
ユリウスが窓から後ろを覗いて言った。
「贅沢ではありません。見張りです」
「見張りでも、馬車の外を守ってくれる分には同じだろ」
リディアは答えずに窓の外を見た。ギルベルトは馬車から少し離れて、同じ速さで進んでいる。
王都が見えなくなると、道は丘の間を縫って上りはじめた。日が高くなった頃、馬車が止まった。
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遺跡は丘の斜面にあった。
枯れた草と土に半分埋もれて、石の門柱が二本、斜面から突き出している。間に人ひとりがかがんで入れるほどの暗い口が開いていた。上に渡した石の梁には雨の筋が黒く残っている。
ギルベルトが先に馬を降りた。口の周りを一回りし、斜面の上と下を確かめてから入口の脇に立つ。
ユリウスはもう門柱の前にしゃがんでいた。リディアは写しの束を開いて隣に並んだ。兄の写しの最後の一枚、入口の内側の壁。そこに写し取られていた円と三本の線を探して、灯りを入口の中へ差し入れる。
内側の壁の、腰の高さの石にそれはあった。
円の中に短い線が三本。写しと同じ角度で、少しずつ向きを変えて刻んである。紙の上ではなく、石に彫られた溝だった。
ユリウスが灯りを近づけ、溝の縁を指先でなぞらずに目だけで追った。
「深さは術式の線とほとんど同じだ。道具の跡も……似てる。でも、これだけじゃ同じ手とは言えない」
「記録します」
中へ入る前に、リディアはギルベルトに向き直った。早く奥の壁を見たかった。だからこそ、先に決めておく。
「出る前に決めたとおりです。ギルベルトさんの『戻る』と、私の『中止』。どちらが言っても、写しの途中でも手を止めて、全員が入口へ」
「承知しました。自分が先に入り、灯りを持ちます」
ユリウスが横で、それ、僕も入ってる? と聞いた。
「入っています。ユリウスが言っても同じです」
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中は外より冷たかった。
ギルベルトが灯りを持って先を行く。通路はゆるく下っていて、天井は手を伸ばせば届くほどの高さしかない。外の光は十歩も進まないうちに、背中の方で小さな白い四角になった。
壁に線が現れたのは、その四角がまだ見えているあたりだった。
浅く細い線が腰の高さから天井まで刻まれている。兄の写しで見たとおりの書き方だった。ユリウスが写しを広げ、壁と見比べていく。リディアは帳面に壁の線を写した。
既に写しにある部分を壁で確かめながら読み進める。受け取る項、通す項。その先に、地下の遺構の写しで見たのとよく似た、溜めて形を写し取る構造が続いている。
少し進んだところで、天井から崩れた石が一枚、壁にもたれかかっていた。腰から上の線が、その陰に隠れている。兄の写しもそこで途切れていた。写した人は石をどけなかったのだ。
リディアは見えている部分の最後の項を読んだ。
読んだ途端に、次が来た。
この項のあとには流れを一度折り返す項が来る。その次に、溜めたものを外へ渡しかける形。その次に――。
いつもの、先に答えが来る感覚だった。書庫で、試験で、研究室で、何度も来た。けれど今は、石の陰の、まだ誰も写していない線だった。
「ユリウス」
声が少し掠れた。
「石をどける前に、続きが浮かびました」
ユリウスが写しから顔を上げた。灯りの中で、その目が細くなった。
「言わないで」
「え」
「読み上げる前に、書いて。紙に。書いたら折って、僕に預けて。石をどけてから開ける」
リディアは帳面の一枚を破り、浮かんだ項を順に書いた。折り返し、渡しかけ、その次に止め。三つ。
二つに折ると、ユリウスが折り目をまたいで自分の名前を書いた。リディアもその上に名前を重ねた。開けば名前が割れる。あとから書き足すことも、書き直すこともできない。ユリウスはそれを上着の内側へ入れた。
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石は思ったより重かった。ユリウスとギルベルトが縁に手をかけ、少しずつ揺すって壁から離していく。リディアは灯りを掲げて、その手元を照らした。
照らしながら、外れていてほしい、と一瞬思った。外れていれば、ただの思い込みで済む。書庫でも試験でも、浮かんだ答えは誰かがもう読んだものの確かめだった。石の陰にはまだ誰も写していない線しかない。
当たっていてほしい、とも思った。当たっていれば、この先が読める。
どちらを願っているのか、自分でも分からなかった。灯りの柄を握る手が汗ばんで、光が揺れた。
石が壁から離れ、床へ倒れた。埃が灯りの中に舞い上がった。
ユリウスが咳をしながら、壁に灯りを近づけた。それから上着の内側から紙を出し、折り目の二つの名前がつながっているのを確かめてから、開いた。
壁の項を一つずつ押さえていく。折り返し。渡しかけ。止め。三項目まで読み終えたところで、ユリウスの指は一項目へ戻った。
「この折り返し」
ユリウスは壁と紙を交互に指さした。
「普通は、ここでは折り返さない。流れを折り返すなら、もっと手前でやる。書いた人の癖かもしれない。少なくとも、流れの続きから素直に出てくる項じゃない」
ユリウスの指が、紙の一行目に移った。
「なのに、君の紙には一番に書いてある」
二項目も三項目も、壁と同じだった。
「地下の写しにも、兄様の写しにも、こういう折り返し方はありませんでした」
「僕もそう思う。でも、それは僕らが何も見落としてないって前提だ」
ユリウスは紙を畳み直して、しばらくリディアの顔を見ていた。いつもの、面白いものを見つけた時の顔ではなかった。
「君、ここに来たことある?」
「ありません」
「子どもの頃とか。誰かに連れてこられて、覚えてないだけとか」
「ありません」
この遺跡に来たことはない。今世でも、前世でも。公爵夫人だった十年、遺跡と名のつく場所には一度も足を向けなかった。
ユリウスは頭を掻いた。
「ごめん。変なことを聞いた。でも、聞かなきゃいけないことだった」
「分かっています」
リディアは自分の帳面を開いて、照合の結果を書いた。書きながら、指が少し震えた。一致の二文字が、いつもより右へ傾いた。その行の頭に小さく印をつけた。要検証。
当たった。胸が熱くなるのと同じだけ、背中が冷たかった。




