第十四話 署名のない書き手
六枚目の写しの右下の隅に、小さな図形があった。
円の中に短い線が三本、少しずつ角度を変えて引いてある。術式の線とつながっていない。力の受け取りにも、通り道にも、残す部分にも関わらない。写した人が律儀に写し取っただけの、意味のない模様に見えた。
「これ、何だと思います」
リディアが指すと、ユリウスは写しを顔に近づけた。
「飾り……じゃないな。写しで見る限り、線の幅も曲がり方も術式の線とよく似てる」
「でも、どこにもつながっていません」
「つながってないから術式じゃない。術式じゃないのに、線の癖だけは術式と同じだ。同じ手で彫ったのか、同じ時に彫ったのかは、壁を見ないと何とも言えない。写しじゃ彫りの深さも道具の跡も分からないから」
ユリウスは写しを置いて、棚の前へ行った。五段目の束を引き出し、何枚かめくって一枚を抜いた。
「整理してる時に見た気がしたんだ。ほら」
別の遺跡の写しだった。地方の古い祠の壁から取ったものだと、端の覚え書きにある。術式の形はまるで違う。けれどその右下の隅に、円と三本の線が写し取られていた。角度まで同じだった。
リディアは思わず身を乗り出した。棚の五段目に眠っていた一枚と、騎士団が地下で見つけたばかりの壁が、隅の小さな図形一つでつながっている。
二人は二枚を並べて、しばらく黙った。
「同じ人が刻んだ、ってことですか」
「同じ図形だってことしか分からない。同じ人か、同じ流派か、真似した誰かか」
「年代は」
「祠の方は、覚え書きだと相当古い。でも覚え書きの年代が正しいかどうかも分からない。地下の遺構の方は年代の手がかりがない」
ユリウスは記録の紙に一行書いた。術式外の図形、二例。同形。年代、未推定。
「推定って書かないんですか」
「推定するだけの材料がない。書いたら、誰かがそれを本当だと思う」
リディアは頷いて、自分の記録にも同じ一行を書いた。書き終えてから、もう一度図形を見た。
円と、三本の線。
見覚えはなかった。
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その晩、兄が書類の束を持ってリディアの部屋へ来た。
「騎士団の依頼を受けたそうだな。バルド室長から聞いた。壁を見て照合したいと言ったとか」
「地下の遺構は、崩れていて当分入れないそうです。騎士団が封鎖したと」
「なら、これが使えるかもしれない」
兄は束を机に置いた。紐で綴じた古い写しの束だった。表紙に北の遺跡、とある。
「北の遺跡の入口付近の写しだ。古い調査の時のものでね。入口側は昔からよく調べられていて、危ない仕掛けもない。中に、お前の言う残す部分によく似た構造がある。地下の遺構と比べるなら、ここがいちばん近いだろう。借り出しの手続きは私の方で済ませてある」
リディアは表紙をめくった。写しの線は丁寧で、余白に年代と調査者の覚え書きが並んでいる。
表紙の裏に管理の印が押してあった。
院の資料庫の印はリディアも毎日見ている。院の紋を四角で囲んだ印だ。この印は違った。紋がなく、円の中に番号だけが刻んである。
「兄様、この印は」
「ああ。院の別の部署で管理していた写しだ。古い調査の資料は、あちこちに散らばっていてね」
兄はそれ以上説明しなかった。説明が要ることだとも思っていない顔だった。
リディアは記録の紙を一枚出して、書きつけた。北の遺跡入口付近の写し一束、セドリック・エルフォードより受領。借り出し手続き済み、と本人より。表紙裏の管理印、院資料庫の印と異なる。円に番号。
兄が覗き込んで、少し笑った。
「私から借りたものまで記録するのか」
「出所を書いておかないと、あとで誰も追えないので」
「研究室の決まりか。いい決まりだ」
兄はそう言って部屋を出ていった。
一人になってから、リディアは束を半ばまでめくった。残す部分によく似た構造が、そこにあった。地下の写しの線の分かれ方が、頭の中で重なりかける。今すぐ並べて見たかった。けれど地下の写しは院の資料庫にある。リディアは束を閉じて、朝を待った。
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翌朝、ニコの立会いで資料庫から地下の写しを出し、北の束と並べた。残す部分の線の分かれ方は、やはりよく似ていた。似ているだけで、同じではない。何をする構造なのかは、北の壁を見なければ確かめられない。
三日後、リディアはバルドの室で、北の遺跡の入口調査の申請を書いた。
範囲は入口から最初の広間の手前まで。目的は、地下の遺構の写しにある残す部分と、北の遺跡の似た構造を比べること。地下の写しの欠けた箇所は、封鎖が解けるまで保留する。人員はリディアとユリウス、護衛のギルベルト。日帰りで、日が傾く前に入口を出る。
バルドは申請を読み、印を押した。
「入口側なら院の過去の記録もある。騎士団にも届けを回しておく。依頼主だからな」
その日の昼過ぎ、面会室にアレクシスが来た。
ローランはいなかった。卓の向こうに一人で座り、リディアが入っていくと、届けの写しを卓の上に置いた。
「北の遺跡へ行くのか」
「入口側だけです。広間には入りません」
「危険がある」
「どんな危険ですか」
アレクシスは答えなかった。卓の上で、手袋の指が届けの端を押さえている。
「入口側は昔からよく調べられていると聞きました。院の記録にも、事故の報告はありません。それでも危ないとおっしゃるなら、何が危ないのか教えてください。崩落ですか。仕掛けですか。それとも別の何かですか」
「……分からない」
低い声だった。
「何があるか分からない場所に、君を行かせたくない」
リディアは卓の上の届けを見た。それから、アレクシスの顔を見た。
夜会の帰りも、雨の門でも、彼は理由を言わないまま人だけを置いた。
「ご注意は伺いました。気をつけます」
リディアは言った。
「でも、行くなとだけ言われて研究を止めることはできません。危ないと分かっている理由があるなら、それを聞いて計画を変えます。理由がないなら、入口側に範囲を限って、予定どおり行きます」
アレクシスは長いこと黙っていた。手袋の指が、届けの端から離れた。
「ギルベルトから離れるな」
「離れません。退路と中止の合図も、出る前に決めておきます」
アレクシスは短く頷き、届けの写しをリディアの方へ押し戻した。
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出発の前日の夕方、リディアは研究室の作業台に北の遺跡の束を広げた。ニコの立会いで資料庫から地下の遺構の写しを出し、隣に並べる。
これまで見ていたのは、残す部分に似た構造の頁ばかりだった。現地で比べる箇所に印をつけるために、入口の門柱の写しから順にめくっていく。通路の壁の写し。最初の広間の手前の、似た構造。
最後の一枚は入口の内側の壁だった。
術式の線が途切れた右下の隅に、小さな図形が写し取られていた。
円の中に、短い線が三本。
リディアは手を止めた。地下の写しの六枚目を引き寄せて、隅と隅を並べる。それから立ち上がって棚へ行き、祠の写しを抜いてきた。
三枚が作業台に並んだ。騎士団が見つけた地下の遺構。地方の古い祠。北の遺跡の入口。場所も、術式の形も、まるで違う。その三枚の隅に、同じ角度の三本の線があった。
「ユリウス」
声が上ずった。向こうの机にいたユリウスが来て、三枚を見下ろした。しばらく何も言わなかった。
「……三例目」
「三例目です」
ユリウスは笑い出しそうな、困ったような顔をした。
「同じ人とは言えない。同じ時代とも言えない。でも」
「でも、つながっています」
誰が、何のために、こんな離れた場所に同じしるしを残したのか。分からないことが一つ増えたのに、胸が弾んで仕方がなかった。
明日、その壁の前に立つ。




