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二度目の人生では、公爵様と結婚しません ~前世の夫が、なぜか今度は私を守ろうとします~  作者: かなりあ


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第十一話 声を立てて笑う

「この記号、どっちの方の癖ですか」


 ニコが整理済みの束を一つ抱えて、作業台の前に立っていた。長いこと唸った末に持ってきたらしく、眉の間に皺が寄っている。


 研究室に通い始めて十日あまりがたっていた。棚の三段目の写しは半分ほど片づいた。片づいたはずだった。


 リディアとユリウスは束を覗き込んだ。余白にはリディアの線と点と小さな記号が、項の名の欄にはユリウスの略語が並んでいる。二人で読む時は、分からなければその場で口で聞けばよかった。だから書いた方は、相手に通じていると思っていた。読んだのが作業台の向かいの相手ではなく、ニコだったのは初めてだった。


「走り書きのままでした」


「僕のもだ」


 ユリウスは紙をひっくり返して、自分の略語を睨んだ。


「じゃあ、君のそれを一個ずつ説明して。僕も自分のを説明する。ニコさんが一人で読めるところまで」


 ユリウスが紙を寄せた。


「この点は」


「止めの印です」


「この曲がった線は」


「戻る流れ」


「これとこれの違いは」


「……太さです。こっちは溜めて出す」


 ユリウスは一つ聞くたびに、余白の横に普通の言葉で書き足していった。それから自分の略語の列を指でなぞって、リディアの方へ向けた。


「次、僕の。これは外枠の第一項。こっちは割れ目による欠損、推定。こっちは欠損、確定」


「推定と確定を同じ字で書いているんですか」


「点が一個違う」


「見えません」


「……だよね」


 ユリウスは頭を掻いて、自分の略語を全部書き直し始めた。


 その日の午後、二人は書き方の決まりを一枚の紙にまとめた。項の名は略さない。欠損は推定と確定を別の言葉で書く。リディアの記号は使ってよいが、必ず横に言葉を添える。最後の行はニコが付け加えた。


 読んだ順番を、番号で書くこと。


「お二人とも読むのが速すぎて、どこから読んだのか後で分からないんですよ」


 ニコは決まりの紙を作業台の壁に留めた。


 翌朝、ニコは整理済みの束を一つ取って、決まりの紙を見ながら読み直した。途中で一度も唸らなかった。


「読めました」


 ニコがそう言った時、リディアの胸が温かくなった。答えが当たった時とは違う温かさだった。自分が速く読めることより、ニコが一人で読めたことの方が嬉しかった。


---


 ミレイユが研究室に来たのは、その週の終わりだった。


 面会の届けを出すと、バルドは作業台の端なら構わないと言った。ミレイユは焼き菓子の籠を抱えて入ってきて、壁に貼られた決まりの紙と、床に積まれた写しの山と、机で頬杖をついているユリウスを順に見た。


「ここがあなたの職場」


「散らかってるのは、ほとんどこの人のせい」


「全部じゃないだろ」


 ユリウスが顔も上げずに言った。ミレイユは目を丸くして、それから籠を作業台に置いた。


 ミレイユが菓子を配っている間に、リディアとユリウスは朝からの続きに戻った。棚の四段目から出てきた古い写しで、二人の読みが一か所だけ合わなかった。


「だから、ここは溜める項じゃない。区切りの点が二つある」


「二つあるから溜めるんです。一つなら止めるだけ」


「その理屈だと、三つあったら何なんだ」


「三つあったら――」


 リディアは言いかけて、写しを見た。三つ。そんな項は見たことがない。けれど、もしあったら。


「三つあったら、溜めたものを分けて、別々の場所に出す」


「そんな項、どこにある」


「ありません。今、思いついただけです」


「思いつきで項を増やすな」


「あなたが聞いたんでしょう」


 ユリウスが噴き出した。リディアもつられて、声を立てて笑った。


 笑ってから、自分の声に驚いた。


 作業台の端で、ミレイユが菓子を持ったまま、こちらを見ていた。


「……何?」


「ううん」


 ミレイユは菓子を一口かじって、ゆっくり噛んでから言った。


「昔のあなたの笑い方だなと思って。書庫で私が何か言うと、そうやって笑ったのよ。ここ何年か、聞いてなかった」


 ここ何年か。ミレイユにとっては、婚約の話が出る前のほんの数年だ。リディアにとっては、その倍以上だった。


 リディアは何も言わずに、菓子を一つ受け取った。ユリウスが写しを指で叩いて、続きを催促した。


---


 夕の鐘から少し過ぎて、リディアは正門を出た。


 いつもの伯爵家の馬車の隣に、もう一台、黒い馬車が停まっていた。扉に翼を広げた鷲の紋。御者台に人はいるが、窓の布は下りている。


 ギルベルトが馬を引いて門の脇から現れた。


「エルフォード様。団長からの命令をお伝えします。夕の鐘が鳴ったら研究室を出ていただくよう、お声をかけること。それでもお出にならない時は、伯爵家の馬車を先に帰し、公爵家の馬車でお送りすること」


 リディアは黒い馬車を見た。


「団長は」


「お乗りではありません。馬車だけです」


「今日は議論が長引いたの。それだけです」


「承知しております」


 ギルベルトの声は丁寧だった。命令を伝えに来ただけの人に、苛立ちをぶつけても仕方がない。それでも、言っておかなければならないことがあった。


「ギルベルト。私は自分の家の馬車で帰ります。それと、研究がいつ終わるかは、研究の進み方で決めます。鐘で切ることはしません」


「しかし」


「遅くなると分かっている日は、朝のうちにあなたに伝えます。途中で長引いたら、その時に知らせます。どこにいるか分からなくなるようなことはしない。でも、夕の鐘が鳴ったから帰りなさい、という指示には従えません。団長にも、そう伝えてください」


 ギルベルトは少しの間黙っていた。それから、踵を揃えた。


「お伝えします」


 リディアは伯爵家の馬車に乗り込んだ。窓から、黒い馬車が空のまま向きを変えて去っていくのが見えた。


 膝の上の鞄には、明日読む写しの番号を書きつけた紙が入っている。明日はユリウスと、三つの点の項がどこかにないか、残りの棚から探すことになっている。


 前世の十年で、明日を楽しみに眠ったことがあっただろうか。


 見張られるために帰るのではない。明日もあの研究室へ行くために、この生活を続けるために、リディアは屋敷へ帰る。

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