第十話 順番が逆
男は腕を枕にして、頬を紙の上に載せていた。
初登院の朝の古代術式研究室で、聞こえるのは男の寝息だけだった。髪が寝癖で跳ね、袖口がインクで汚れている。腕の下の紙には古代文字の図が描きかけのまま残っていた。
ギルベルトは約束どおり扉の外で足を止めた。リディアは一人で中へ入り、扉を閉めて少し待った。
男は起きなかった。
床に散った紙を踏まないように足の置き場を選びながら、机の脇まで歩いた。机の上には遺跡の壁の写しが何枚も重ねてある。一番上の写しは、男の腕からはみ出している部分だけが見えた。線が四本、円の外から入って中で絡んでいる。
男の手元の紙に書きかけの読みがあった。外枠から順に項を一つずつ拾っている。三つ目の項のところで、線が何度も引き直されていた。
「そこは、流れの出口です」
声に出してから、しまったと思った。
男が跳ね起きた。椅子が後ろへ傾いて、背に積んであった紙が床へ滑り落ちる。男は落ちた紙を見て、それからリディアを見て、最後に自分の手元を見た。
「……何て言った?」
「その三つ目の項です。外から入る線ではなくて、流れの出口です。入口だと思って読むと、後ろの二つが合わなくなります」
男は紙を見下ろして、しばらく黙った。
「出口なら、この線の向きが説明できない。出口の線は外へ向かって細くなる。これは太くなってる」
「太くなっているのは、ここで一度溜めているからです。溜めてから出す」
「溜める項なら、その前に区切りの点がいる。ない」
「ないのではなくて、写しで欠けているんだと思います。元の壁がここで割れていれば」
男は腕の下から写しを引き抜いた。隠れていた部分に壁の割れ目を示す波線が描いてあった。
男は波線を見て、リディアを見た。
「誰?」
「リディア・エルフォードです。今日から、ここに配属されました」
「ああ、新人」
男は椅子を戻して座り直した。挨拶はそれで終わりらしかった。
「ユリウス・レインハルト。ここの、まあ、住人だ。それで、溜める項だとして、出す先は」
---
昼の鐘までの間に二人は写しを三枚広げた。
ユリウスは早口だった。思いついたことを片端から口にして、半分を自分で打ち消し、残りの半分でリディアに噛みついた。リディアも引かなかった。線の太さ、点の位置、割れ目の向き。言い返すたびにユリウスは「いや」と言い、次の瞬間には「待って」と言って紙に何か書いた。
身分の話は一度も出なかった。伯爵家の娘だということを、この人は知らないのか、知っていて気にしていないのか。どちらとも分からなかった。言い返してくる声に、遠慮の響きはなかった。
公爵邸では、言葉は短く、正しくなければならなかった。答えの決まった問いに、決まった答えを返す。言い返せる相手はいなかった。今、目の前の男はリディアの言葉に「違う」と言い、リディアは「違わない」と言える。
三枚目の写しは壁一面の大きな術式の一部だった。項が重なり合っていて、どこから読めばいいのか、ユリウスも頭を掻いた。
「外枠からいくと、ここで詰まる。この五つが全部、外から入ってくる線に見える」
「入ってくるのは一つだけです」
リディアは写しの中心を指さした。
「ここが最後に閉じる項で、それに向かって流れているのが、この一本と、この一本。そこから一つ戻ると、ここで分かれていて、だから外から入るのはこの一本だけで、残りの四つは中から外へ」
言いながら、線が一本ずつほどけていった。
ユリウスが黙った。リディアが読んだ順を、自分の指でたどり直している。外からではなく、中心から外へ。
「君の解読、順番が逆だ」
ユリウスはゆっくり言った。
「でも、合ってる。……たぶん。僕のやり方で確かめてみないと分からない」
---
「一枚ずつ書こう」
ユリウスは白い紙を二枚出して、一枚をリディアの前に置いた。
「同じ写しを、お互い見ないで読む。君は君の順番で、僕は外枠から。終わったら並べる」
リディアは頷いて、写しの中心から書き始めた。最後に閉じる項。そこへ流れ込む二本。一つ戻って、分かれ目。手は迷わなかった。書き終えた時、ユリウスはまだ外枠の三つ目の項を拾っていた。
待つ間、リディアは自分の紙に根拠を書き足した。検証室で学んだとおり、線の太さや点の位置を一つずつ添えていく。書き足しながら気づいた。どの根拠も、答えが出たあとで確かめたものだった。どうして最初に中心へ目が向いたのかは、どこにも書いていない。
ユリウスが書き終えるのに、窓の光が床を板一枚分進むほどかかった。
二枚を並べた。
答えは五つとも同じで、根拠もほとんど一致していた。違うのは並び方だった。ユリウスの紙では、一つ目の項の理由から二つ目の項が導かれ、そこから三つ目へ進んでいる。リディアの紙では、答えが先にあり、理由はあとから一つずつ添えてあった。
「君のは、答えを確かめた理由だ。僕のは、答えに辿り着いた理由だ」
ユリウスは二枚を見比べて、それから顔を上げた。
「普通は外枠から入るんだ。項を拾って、つないで、最後に流れが見える。院の教本もその順で教える。そうしないと読めないからだ。でも君は最後に閉じる項から読んだ。最初に終わりを見て、そこから戻ってきた」
「私も外から習いました。兄の資料で。幼い頃の写本で」
「習ったのと違う順で読んでるってことか」
ユリウスは椅子の背にもたれた。
「なんでそうなるのか、自分で説明できる?」
リディアは自分の紙を見た。
「できません」
言ってしまってから、胸の奥がひやりとした。試験で根拠を書けと言われ、検証室で他人の手に結果を委ねた。それでも、読む順番そのものについて聞かれると、言えることが何もない。
「分からないんです。見ると、終わりのほうが先に来る」
ユリウスは、ふうん、と言っただけだった。馬鹿にした響きも、感心した響きもなかった。
扉が開いて、灰色の髭のバルドが入ってきた。後ろにニコが書類の束を抱えている。
「来ていたか。レインハルト君、また机で寝たな」
ユリウスが肩をすくめた。バルドは机の上の二枚の紙に目を留め、手に取って見比べた。
「ちょうどいい。棚の三段目から五段目までの写しが、読みかけのまま何年も溜まっている。君たち二人で整理してくれ。読めたものから、誰でも追える記録にする」
「二人で、ですか」
「一人は速い。一人は辿り着き方を残せる。両方要る」
バルドは紙を机に戻した。
リディアはユリウスの方を見た。ユリウスは床に落ちた紙を拾い集めながら言った。
「僕は外から読む。君は中から読む。合わなかったところだけ、どっちが正しいか喧嘩する。それでいい?」
「それと」
リディアは理由をあとから添えた自分の紙を手に取った。
「私の読み方の順番も、記録に残してください。なぜそう読めるのか、今は説明できません。でも、どの順で読んだかなら書けます」
ユリウスが手を止めて、リディアを見た。
「分からないことを、分からないって書くのか」
「隠したら、あとで誰も追えないので」
ユリウスは少し笑って、記録の紙の欄の端に一行足した。読んだ順。
ニコが書類の束を作業台に下ろした。リディアは中心から外へ書いた自分の紙と、外から中へ書いたユリウスの紙を並べたまま文鎮で押さえた。
習った順番で読んでいないのに、なぜ答えが合うのだろう。




