幕間 ウォンブ王国
王城の一室に、地図が広げられていた。
机を囲むのは、騎士団長ガイウス、宰相、そして数名の文官たち。
地図の中央には、大きく塗りつぶされた地帯――魔力圏が描かれている。
「――報告を続けろ」
国王の言葉に、文官の一人が緊張した面持ちで書類を読み上げる。
「はっ。此度の調査でも、第三部隊は森の中層で撤退を余儀なくされました。理由は、想定を超える魔物の強さです」
「また、か」
ガイウス団長が低く唸った。
「先月の第一部隊も、先々月の第二部隊も同じだ。奥へ進むほど魔物の質が跳ね上がる。これまで見たこともない大きさの個体が現れることもある」
「以前は、ここまでではなかったはずだが」
国王が地図を指でなぞる。
ウォンブ王国が魔力圏に隣接する国として存在してきたのは、もう何百年も前からのことだ。
森の魔物は、常に一定の脅威ではあった。
しかし、周辺国と協力し、結界に類する監視網を維持することで、これまでは十分に抑え込めていた。
「前までは、確かにここまでではありませんでした」
宰相が眼鏡を押し上げながら言う。
「ここ一月ほど、明らかに森の様子がおかしい。魔素濃度の観測値が、右肩上がりに上昇しております」
「一月……ちょうど、その頃からか」
ガイウス団長が腕を組む。
「妙な符合だな」
「符合、とは?」
「いや……」
団長は言葉を濁した。
確証があるわけではない。
ただの勘のようなものだ。
「濃度が上がれば、魔物も強くなる。それは道理だが……」
「原因が分からん。魔力圏そのものが、何かの理由で活性化しているとしか思えん」
「隣国からも、同様の報告が」
文官が別の書類を取り出す。
「東の国境沿いでも、逃げ出した魔物の目撃例が急増しております。これまで森の奥に留まっていたはずの種が、外へ流れ出てきている」
「流れ出てきている……つまり」
国王が眉をひそめる。
「森の奥で、何かが魔物たちを追い出すほどの異常を起こしている、ということか」
誰も、即座には答えなかった。
「調査部隊を、もう一度編成しろ」
国王がようやく口を開く。
「今度は騎士団の精鋭を中心に。奥まで踏み込めずとも構わん。何が起きているのか、少しでも情報を持ち帰れ」
「御意」
ガイウス団長が頭を下げる。
しかし、その表情はどこか晴れなかった。
「……正直に申し上げれば」
「なんだ」
「あの森に、そもそも人が踏み込んでよい場所なのか、私には分かりかねます」
誰かが名を挙げた。
かつて森の奥に住んでいたという、かの有名な賢者。
魔王討伐の英雄でありながら、晩年は隠遁し、消息を絶ったとされる人物。
「賢者殿が健在であれば、何か知恵を貸してくれたやもしれませんな」
宰相がぽつりと呟く。
「だが、あの方はもう何年も前に姿を消している。生死すら定かではない」
「……」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
誰も、森の奥で何が起きているのかを知らない。
まして、その原因が。
たった一人、ひと月前にこの世界へ生まれ落ちたばかりの、小さな魔族の少女だとは。
誰一人として、想像すらしていなかった。
「……とにかく」
国王が地図を閉じる。
「これ以上、被害を広げるわけにはいかん。調査を急がせろ。そして、周辺国とも情報を共有し続けろ」
「はっ」
その日の会議は、これといった結論も出ないまま終わった。
部屋を出たガイウスは、窓の外に霞んで見える魔力圏の森を、しばらく見つめていた。
いつもと変わらない、深い緑の稜線。
けれど、その内側では、確かに何かが変わり始めていた。
「……何が起きているにせよ」
ガイウスは、小さく息を吐いた。
「早く、正体を掴まねばな」
その呟きは、誰の耳にも届かないまま、廊下の静寂に溶けていった。




