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第3話 -最初の戦い-

「――ねえ、今の音、何?」


乃灯歌さんが、顔を強張らせて廊下の方を振り返った。

旧校舎の沈黙を切り裂いたのは、複数の重い足音と、チャキリ、という不吉な金属音。


「うそ、もう来たの……!?」

花望が椅子を蹴って立ち上がる。僕たちの能力の確認は、最悪の形で中断された。


十六原が思い切ったようにドアに手を伸ばし、一気に開ける。

そこに立っていたのは、作業服を着た三人組の男たちだった。手には鈍く光るナイフと、小型の拳銃。


「……いたぞ。ターゲットの女を連れて行く」


男たちの視線が、廊下で立ち止まっていたハルカ先生に注がれる。

「あら、点検に来た業者さんかしら?」と、先生はまだ事態が飲み込めていない様子で小首を傾げている。


――守らなきゃ。

でも、どうやって? 体はガタガタと震え、頭の中は真っ白だ。戦ったことなんて、あるわけない。どうすればーー


「っ、危ない!」


花望の叫びが合図だった。

彼女が反射的に突き出した両手から、制御しきれないほどの大量の花びらが突風のように吹き出した。

あまりの勢いに、視界が真っ赤なアネモネで埋め尽くされる。


「うわっ、なんだこれ! 前が見えな……!」

男たちが怯んだ隙に、粋が野性的な動きで飛び出した。

一瞬で肥大化した「狼の右腕」が、男の一人を壁際まで吹き飛ばす。だが、慣れない力の反動か、粋自身もバランスを崩して机の角に左肩を強く打ち付けた。


「咬谷くん! 大丈夫⁉︎

……高池くん、何か壁になるものを描いて! 先生が見ちゃう!」

乃灯歌の声に、僕は弾かれたようにスケッチブックを開いた。

でも、何を? 何を描けばいい?

焦れば焦るほど、鉛筆が紙を引っ掻いて嫌な掠れ音を出す。


「……ああもう、どうにでもなれっ!」


僕は無我夢中で、紙一面を真っ黒に塗りつぶすように、巨大な「鉄の衝立ついたて」を描き殴った。


ドスンッ!!


空中に、描きかけの歪な鉄の壁が出現し、床を揺らしながらハルカ先生と男たちの間に割り込んだ。

「な、なんだこれ……壁!? どこから出たんだ!?」

男たちが混乱し、逃げ惑う。


その隙に、十六原が男たちの背後に立ち、そのオーラを編み上げた。

「……少し、眠っていてください」

彼が放った不可視の布が男たちの首筋に触れた瞬間、彼らは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「……はぁ、……はぁ、……はぁ」


静まり返った教室内。

僕はへたり込み、描き出した「鉄」が消えていくのを必死に願った。


「咬谷くん、大丈夫!? 見せて」

乃灯歌が、左肩を抑えて顔をしかめている粋の元へ駆け寄る。

「ぶつけただけ」

ぎこちなく右手の指でスマホを打つ粋の左袖を、乃灯歌が捲り上げる。よほど強くぶつけたのか、花火が散るような派手な形の痣ができていた。

彼女は、粋の肩にそっと手を伸ばす。


「大丈夫。すぐ良くなるよ」

彼女の指先が患部に触れた瞬間、温かな光がそこを包むように見えた。痣が消え去り、粋が驚いたように目を見開く。


「……ごめんね、まだこれくらいしかできなくて」

乃灯歌が小さく微笑んだ、その時。


「みんな〜? 大きな音がしたけど、大丈夫?」


廊下の鉄の壁が消えた先から、ハルカ先生がひょっこりと顔を出した。

まずい。背中を嫌な汗が伝う。散らかった机や椅子、まだ消えていない僕の描いた壁や花望の出した花びら。そして床に倒れている3人の男達。

こんなの、どうやって言い訳したら…。


しかし、先生はにっこりと笑って、嬉しそうに胸の前で手を合わせた。


「あら、演劇の練習かしら〜? 楽しそうね! さっきの大きな音は、舞台セットが倒れた音かな?」

ハルカ先生は、足元に倒れている男たちを見ても「あらあら、みんな役作りでお昼寝中なのね」なんて暢気なことを言っている。

それをぽかんと見つめる僕たち。…なんだ、この温度差。南極と赤道か。もはや、先生の周りだけ、お花がくるくる舞っている幻覚さえ見えるようだ。


何も知らない先生が鼻歌交じりに去っていく。

その足音が聞こえなくなるまで、僕たちは石像のように固まっていた。


花望が、さっき伊織のオーラに当てられた敵達のごとく膝から崩れ落ちる。


「な、なんで気づかないのよ…。先生、鈍感すぎでしょ…」


「いや無理無理無理。死ぬ。こんなの、心臓が持たないって…‼︎」


僕は床に転がった鉛筆を握りしめた。

自分の描いた「鉄」の重みが、まだ右手に残っている。




             ***



僕の世界には、色がなかった。

正確に言えば、色をつけるのが怖かった。


中学校の美術室。僕が描いた抽象画を、クラスの数人が笑いながら指さしたあの日からだ。

「何これ、暗い。高池って病んでるんじゃね?」

「うわ、近寄らんとこ。変な色ばっか使ってさ」


始まりはそんな些細な、子供じみた悪口だった。でも、弱い僕にとっては十分すぎるほど致命傷だった。

それ以来、僕はクラスの輪から外れ、色を失った。僕のスケッチブックは、いつしか真っ黒な線と、濁ったグレーだけで埋め尽くされるようになった。誰にも文句を言われないように、誰の目にも止まらないように。

やがて、息ができなくなった。そこはまるで、真っ黒の海だ。どうして自分がここにいるのか、これからどうなるのか、全部が分からない。息を止めて、隠れて、時間が過ぎるのをひたすらに待つ。そうしているうちに、息のしかたを忘れたように、そこにいるのがひどく耐えられなくなった。


「新設クラス」という名の隔離病棟に放り込まれても、僕のスタンスは変わらなかった。

一番後ろの席。逃げ場所としてのクロッキー帳。


「……はぁ」


最初の襲撃から、2日後。あれから、再び敵が来ることはまだなかった。

まだ誰もいないはずの教室で、僕は一人、鉛筆を走らせていた。

描いているのは、モノクロの海原。誰も見ていなくとも、ただひたすらに寄せては返すグラデーションと、耳の奥で反響する水の音。この景色も全部、僕の中で完結する、はずだった。


「わあ……! この黒、すっごく深いね」


背後から突然降ってきた声に、心臓が跳ね上がった。

振り返ると、そこには窓から差し込む夕日に照らされた、桜井ハルカ先生が立っていた。


「あ……」

僕は咄嗟にノートを閉じようとした。また言われるんだ。暗い。不気味だ。もっとちゃんとしたもの描けって。花望に言われた時はもうほぼ慣れていたのに、なぜか先生にそう言われるのは嫌だった。


「高池くんの描く線は、すごく力強いね。なんていうか……『守られている』感じがする」


手が止まった。

……守られている?


「普通なら、暗い色って敬遠されがちでしょ? でもね、高池くんの黒は違うみたい。大切なものを隠して、守り抜くためのような優しい黒だなって思ったの」


ハルカ先生は、僕の隣の席にひょいと腰掛けた。

彼女の放つ熱量は、僕が数年にわたって築いたはずの分厚いガラスの壁を、水飴みたいにいとも簡単に溶かしていく。


「…先生、僕のこと、変だと思わないんですか。こんな、濁った色ばっかりで」

「変? どうして? 私は大好きだよ。強い意志がないと、こんなに迷いのない線は引けないもの」


先生は僕の目を真っ直ぐに見て、嘘偽りのない、あの眩しい笑顔を浮かべた。


「高池くん。いつか、君が『守りたい』って思えるような宝物に出会えた時、この黒はきっと世界で一番頼もしいものになるよ」


あんな風に僕の『逃げ場所』を肯定してくれた大人は、彼女が初めてだった。

否定も、矯正もせず、ただそのままの僕を認めてくれた。

先生は、何も知らないんだろう。命を狙われていることも、あの変な校長のことも、僕らが戦わされていることも。だからさっきの言葉も、将来の夢とか希望とか、そういうことを言いたかったんだろう、きっと。

最初の襲撃のときは、恐怖と焦りに突き動かされ、とっさに能力を使ったようなものだった。その後、どうして、会ったばかりの担任教師を守らねばならないのかとひどく憂鬱な気分になったはずだ。

それでも、僕は目の前のこの人を、自分の手で「守りたい」と、思ってしまったのだ。

例えるなら、綺麗な桜の木。

春には薄い桃色の花をたくさん咲かせる。ただそこに存在するだけで、人々を笑顔にさせる。それでいてとても儚くて、ふと目を離した瞬間にあっという間に散ってしまうんだ。


僕はまだ、桜を暴風から守る鉄の壁にも、花びらを優しく受け止める大海原にもなれない。言うなれば泡だ、海の中を僅か数秒で漂って消えてしまう泡のようなか弱い存在。


それでもこの人といれば、もしかしたら、なんて。

僕は黒い鉛筆を握って、新しい海の中で深呼吸をした。

次は花望ちゃんに焦点あてようかな、なんて

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