1x03 Part 1 / 4
冬の北海道の離島。積雪は少ないものの強烈な雪混じりの風。
「北野先生!もう血圧限界です!235の175!」
「血管が破れてしまいます北野先生!」
「心拍140、FLASH肺水腫!北野先生!!」
わかった、わかってる。
けれど、私のような研修医と看護師1名ではかなり難しい。
この天候では札幌からのドクターヘリも飛べない。
島内の「ドクター」は私しかいない。
どうする、もうダ
「めがもっ!!!!!!」
北条は仮眠室で絶叫し、自分の声に驚いて起きる。
…
…?
(うげえ…夢か…)
北条は研修医時代の夢を見ていた。
北条、旧姓北野は、条件のある私立の医科大学の出身だ。
その条件とは「医療過疎に苦しむ地域の自治体が共同で資金を出し、学生の学費は全額免除するが、卒業後出身地の医療過疎地域で9年間研修医として勤務すべし」というものだ。
北野は北海道の北見出身だったので、北海道の離島に何度も行った。
一人で解決せざるを得ないという極限状態は、結果的には良かったと思っている。
寒い北海道の中でもひときわ寒い北見の冬で育った北野にとっては、極端に寒くはない離島の天候はどうということはない。
離島で寂しいのは当たり前だが、離島の派遣研修医にはやるべきことが山ほどあった。
実家が裕福ではない北野にとって有り難かったのは、私立の医学部だと卒業までの6年間で3000万円以上かかる授業料がゼロだということ。
ともかく、こうして変な夢をたまに見ることを除いては、奨学金返済を考えなくてよかったことがありがたいな…とも考えている。
(夜勤の時に限ってこの夢を見るなあ…)
北条は「北野」だった時代の悪夢を見ることがある。
(北野から北条になっても夢は見るよね…北条…弘の姓…)
そして北条は、ふと思い出したことがあった。
(…む…最近セックスしてないのでは…?弘も忙しいし…)
右手につけているガーミンのスマートウォッチを見ると、時刻は1時を回ったところだ。
ヴィルクと交代するまではあと1時間弱ある。もうひと眠りできるかもしれないけど…何か心がざわつく。
今は女性用仮眠室は北条しかいない。
「…」
「……」
「………ん…」
右手につけたガーミンのウォッチが、心拍数の上昇を検知して静かに振動する。
(うるさいなあ…)
北条はガーミンを外し、ベッドサイドのテーブルに放り投げる。
続きを始める。
(…んっ……)
艶やかな声は、枕とシーツによって全く外には聞こえない。
…
ERの受付では、ヴィルクと島が流暢なロシア語で雑談しつつコーヒーを飲んでいた。
「 <つまり日本から見て外国語のVを表すために「ヴ」という文字ができたという事ですよね、島さん>」
「 <そうそうヴィルク先生 あんたの名前スヴェトラーナ・ヴィルクには、なんとヴが2つも入っている>」
「 <あまりうれしくはないSSRですけれど…まあ正しく発音してくれるのならばそれもいいですね>」
「<実際は使う使わないはケースバイケースなんだけどね それにWもヴと表現することもあるし>」
「 <まあ…まだしばらくはロシアには帰れなさそうなので、もっと日本語を勉強しなくてはですね>」
「 <いやーあんたの日本語なら日本でも医者ができるんじゃないか?研修期間が終わったら考えてみたらどうだね?> 」
「 <そうですね…でも…やっぱりロシアには帰りたいですよ> 」
そこに北条がやってくる。
よく寝られたのか、すっきりした表情に見えた。
「あれ北条先生、交代まではまだ15分ほどありますヨ?」まずまずの日本語でヴィルクが北条に聞く。
「おはようスヴェータ…うーん…よく寝られたのでもういいわ あなた仮眠したら?」
「ありがとうございまス!ではガチャ回しまス!」
「暇な夜勤の時にならガチャくらい回してもいいわよ…患者は?」受付エリアの隠匿されている菓子を漁りながら北条が訪ねる。
「えっちょ、北条先生なんであんた隠し場所知ってんだ?」島が目を丸くして言う。
「ふふふのふ 私はER部長ですよ?この聖路都のERで知らないことはありませんね」一番高そうな個別包装されたチョコレートを取り、自慢げに北条が答える。
「現在1名、カーテン4号でス、40代の男性、えー… <ルナ、ロシア語で話しましょう>」
【ツピ!< ヴィルク先生ロシア語了解です> 】
「 <Кальцифицирующий тендинитを日本語にしてくださいな> 」
【石灰沈着性腱炎】
「せっかい…ちんちゃきゅせい…けねん…でス!」言いづらそうにヴィルクが復唱する。
「あー言いづらいわよねそれ、わかるわ…」チョコレートを口に入れながら北条が話す。程よい甘さでおいしい。
「痛みがひどくて寝られないとのことデ、レントゲンで写真を撮りましたとこロ、左上腕骨の大結節の前上方にリン酸カルシウム結晶が認められましタ 1%リドカインを5ml、そのあとソルメドロールを40mg、現在は痛みが引くまで様子見でス」
「了解、特に問題は無いと思う症例だけど注視するわ ありがとう」
患部がレントゲン撮影された写真を2人で見ながら検討し、引継ぎを終えてヴィルクは仮眠室に向かう。
仮眠室はロッカールームの隣にあり、ワンルームマンションよりははるかに狭いが、カプセルホテルのベッドよりははるかに大きなものだ。
ERのある1階にはそれが6室あるが、ロッカールームの上にあるため、セキュリティは強固だ。
ヴィルクがベッドの一つに入る。
北条は別の理由で寝てなかったが、ヴィルクも別の理由で寝ないつもりだ。
「 <これ!このSSRのスターリン・メガトン・ハンマー!!これを取るのよ!これがあれば中ボスの悪徳資本家もぶっ殺せるのよ!> 」
名前も物騒だが、性能も目的も物騒っぽいSSRを取るため、デイリーをさくさく回し、勝てる見込みの少ないガチャにヴィルクは挑む。
「…」
「……」
「………!?」
「Ураааааааааааа!!」
…
…
早番の安蒜がラウンジにやってくる。
「おはよう、諸君」ネクタイをきちっと締めて白衣を着ているのは、このERでは安蒜くらいなものである。
安蒜はこのERの中では最年長で、HALO組の南とは同じ歳である。
「おはようございます安蒜先生」やや眠そうに答える北条。
「おはよう部長…昨晩は…割と暇やったんかな?」
「ええ…石灰沈着性腱炎が一人、蜂窩織炎が一人、謎の腹痛が一人」
「…謎の腹痛って、なんなん?」自分のマグカップの中で紅茶のティーバッグを揺すりながら安蒜が尋ねる。
「……なんか命令があったらしく、ティッシュ、トイレットペーパー、タンポン、コンドーム…いろんなものを飲み込んで……で、今は精神科」
「ああ…なるほど…それは精神科やねえ…」苦笑いして安蒜が答える。
少し早い時間だが、日勤のグエンも出勤してくる。
「おはようございまーす…ってあれ、なんかのんびりなのですね?」すこしウェイヴしている黒髪をヘアゴムでまとめて来たグエンだが、仕事中は逆にほどく。ほとんどメイクをしてなくても彫りが深く、東南アジア系の女性という印象を強く与える。
「おはようラン先生、ちょっと暇な夜勤だったわね」帰り支度を始める北条。
「でも私は聞いてくださイ!仮眠中にスターリン・メガトン・ハンマーをゲットしたのでス!」同じように帰り支度を始めるヴィルクだが、明らかに興奮気味である。
「<スターリンって名前やばくないですか?スヴェータ先生?>」流暢なロシア語でグエンが尋ねる。グエンはベトナム出身なので、英語よりはフランス語やロシア語の方がより話せる。
「<そう、だからロシア語版ではジュガシビリという「仮名」になっているのよ>」
「<…いやそれ本名じゃないですか…どこかしらに怒られるやつですよ…>」
「はいはいみなさんおはようござんすー、ちょっと妊婦に道を通してもらえるかなあ?」
受付の佐々木が軽口を叩きながらラウンジに入ってくる。佐々木は妊娠33週目で、そろそろ産休を取る予定である。
「ええー天音さン、まだ働く気なのですカー??もう休暇に入った方がよろしいのでワ?」
「まあ安定してるからねえ、逆子は治らないんだけど…今月は週2の出勤だしね」同い年のヴィルク相手に気軽に答えながら、佐々木は1リットルパックの牛乳をゴッ!ゴッ!と豪快に飲む。
その佐々木の代わりとして勤務し始めたのが大学生バイトの本宮である。今日は彼女にとって初めての夜勤の予定だ。
「すると…カイザーってことになるんやろね?」安蒜がきっちりと身なりを整えつつ佐々木に聞く。
「んー一応逆子体操はやってるんですけど…無痛分娩を予定してるから、まあ帝王切開でもいいかなって」
「ここの産科だっけ?」北条が尋ねる。
「…北条先生、自分の勤務先で出産したいと思います?何もかも丸見えですよ?絶対ヤですよ私」股間を指差しながら佐々木が顔をしかめる。
「ぐはっ…そりゃそうだわ」妙に納得する北条。
「そういう日本人ならでワの気持ちの問題ワ、ビキというやつですカ?」
「機微というやつやね」アッサムの最後の一口を飲みながら、関西弁で冷静に突っ込む安蒜。
まだ受付にいる島がインターホンで怒鳴る。
「東京消防庁からです! 幼稚園児の列に車両が突入、マスカル!!」
多数傷病者という単語を聞き、全員の顔色が変わる。
「多数って人数はわかる?島さん」受付に戻り島に聞く北条。
「怪我人は少なくとも14人、うち5名が重傷、他3名がCPA」
「これは…ちょっと帰れないわねスヴェータ 準備は?」
「ドンと来いでス!」
「あと、遅番は誰やったっけ?」
「南先生と眞山先生、眞山先生は朝は割とすぐ来ると思うけど…」
と北条が言い終わらないうちに眞山がラフなジャケットで出勤してくる。
「おはよう…ってなにどうしたの?」
病院勤務と言わなければ、これからナンパでもしに行きそうなオシャレな格好をしている眞山。
佐々木は妊婦なので医療関係者用の緑の上着を着づらくしている。
眞山はそれをさりげなく手伝ってやりつつ、
「ルナ、状況を教えてくれ」とルナを呼び出す。
【ツピ!おはようございます眞山先生 自動車と歩行者による交通事故発生、怪我人14、うち5歳以下の未成年者11、重傷2、重体3】
「なんだそれ…暴走車か?」横では佐々木がオッケーマークを出してウィンクしている。うまく着れたようだ。
【状況不明ですが、その可能性が高いと推測されます】
「ったく…今になってもたまに起こるんだよな…やりきれねえよ…よし俺も入る」
「さすがです眞山先生…うちのボスはまだ来ませんねー」とHALO組のグエンが自分のところのボスである南を軽くなじる。
「鬼電しますね」グエンは自分のスマホを取り出し南に電話をかける。
「鬼電って…どこでそんな日本語を覚えたのラン先生?」佐々木がふうっと息をついて妊婦用にあつらえられた椅子に座る。
「…ボスからです………ああ南先生おはようございます、いまどこにいらっしゃいますか?あの、とっとときていただけますか、実は…」自分のボスをボスとも思っていないような体でグエンがスマホに向かって喋る。
…
バアン!とERの両開きの扉が開き、ストレッチャーが入ってくる。
「5歳男児、カートと車両に挟まれました 外傷はほぼないものの緊張性気胸、ヴァイタルは82の50、心拍150、グラスゴースケールは11、痛みからの逃避行動あり、肋骨骨折の可能性あり、推定出血量100cc以下」消防隊員の山本が、女性としても小柄だがハキハキした声で伝える。
「痛いよう…痛いよう…ママあ」幼児が暴れている。
一瞬胸に詰まる眞山だがすぐに気を取り直す。
「フレイルチェストだ…よし、これは俺がもらう、スヴェータ、行こう!外傷3号」
「了解でス眞山先生!トラウマ・スりー!」
2台目のストレッチャーにはなぜか南がだらっとした服装で付き添っている。
「4歳女児、頭部外傷、瞳孔散大、血圧178、110、心拍48で徐脈、グラスゴースケールは3!DOA寸前です先生」救急隊員の山下が図太い声で南に聞く。ペアの阿南が患者の頭を押さえている…どうやら脳が露出しかかっているようだ。
「まだだ…脈があるならまだワンチャンある」
「ボス…間に合ったんですね!」ぱあっとハスが咲いたような笑顔を浮かべてグエンが語りかける。
「おはようラン…渋滞してたけど…ちょっと回り道してね…それより…この子は…まずいねこれ」
「頭部骨折なので、慎重に…南先生」阿南が南に伝える。メガネをかけ、いかにも真面目と言った女性隊員だ。
「わかったわ、サンキュー陸軍」
「先生よろしくです!」緊張下でもユーモアを忘れないナイスガイの山下が敬礼を返し、南雲と共に足早に去っていく。
「もうこの子はほとんど死んでるけど…なんとかやってみようラン 外傷2号に入れる」
「ウィ、マダム」グエンが覚悟を決めて答えつつ考える。
「<…陸軍…とは…??>」
3台目…最後のストレッチャーだが、一見重傷患者には見えない。が…
「5歳男児、腹腔内出血と骨盤骨折の疑い、ヴァイタルは血圧58の34、心拍162、グラスゴースケールは4」かなり緊張した声で救急隊員の南雲が伝える。
「大きな外傷が見られずにいったんは歩いて話していたそうなのですが、突然意識が昏倒したとの教諭の話です」南雲が続けて状況を説明する。
「腹腔内の大量出血だと、出血性ショックも心配だわ…一旦意識があった点も気がかりね」
「…これは難しそうやな…よしシヴァームを使おう部長、これは切り札の出番や」
「賛成です安蒜先生、外傷4号へ!シヴァーム、スタンバイ!」




