1x06 Part 1 / 4
大田区大岡山。
(さーて、そろそろ出なあかんな)
安蒜が出勤の準備を整えて紅茶を飲んでいる。
1DKの単身者用マンション。ここは東京化学大学の至近ということもあり、学生が多い街だ。
安蒜は関西ナンバーワンの医科大学を卒業し、その大学病院に勤務しつつ結婚し、娘が一人生まれ、六麓荘にまずまずの豪邸を建て、診療部長にまで上り詰めた。
人生の絶頂を迎えたころ、医局内での政治争いに巻き込まれ、他人の医療過誤の責任を負わされる。
すべての地位を失い、退職せざるを得ない状況になったのは、何一つ安蒜の責任ではない。
ただ、その立ち位置がすでに医局内の派閥の一派になっており、その派閥が一気に力を失った時、安蒜にも影響が皆無ではなかったどころか、派閥を守るために「スケープゴート」となってしまった。
職を失い、家を失い、別の病院で精神科医として勤務する妻からも離婚され、一人娘の親権も奪われた。
失意のうちに安蒜は単身東京にやってきて、聖路都国際病院のERドクターのポジションを得た。同時に診療部長が病欠気味だったために診療副部長という地位に就いた。これはどちらかというとお飾りなのではあるが…。
安蒜は、なぜそうなったのかという事は完璧に把握している。自分に責任が一切ないのも自覚しており、政治的なものには勝てなかったと感じている。
だから安蒜は、本当は復讐心に燃えている。
自分を閑職に追いやり、ついには退職まで追い込んだ病院の医師達。
勤務先の若い看護師と不倫関係となり、それを隠し通し、発覚する前に起きた政争を理由に離婚し、家も土地も娘も奪った元嫁。
本当に苦しいときに何も手を貸さないどころか、関西の病院で再就職できないように手を回していた大学時代の教官。
安蒜は、そのすべての関係者を殺してやりたかった。
実際に10人分の致死量に相当するパンクロニウムのアンプルを台帳を操作して入手していた。
しかし、それでは何の解決にもならない。
逆恨みした大量殺人者の元エリート医師としてマスコミや「ユーチューバー」のエサに終わるだけである。
この時代の日本では死刑は廃止されているものの、終身刑が新設されている。
自分が負けたまま人生が終わってしまう。
それは、我慢ならなかった。
「負けたまま終わらない」ことを、安蒜は復讐の定義とした。
だから安蒜は東京での転職を考え、タイミング良く経験豊富なドクターを探していた聖路都と面接し、キャリアを再スタートさせた。
安蒜にとって聖路都は自らの人生を立て直す場所であり、「復讐」を果たすための巣でもある。
…あるのだが…
「おっ、今日プレバンでヴェンジェンスの再版やんけ…!こら勝ちに行くしかないな!」
すっかり一人暮らしを満喫しているようである。六麓荘の家の10分の1もない1DKではあるが、気楽なものである。
家事代行サービスを使っているので、食事も含めて家事一切は安蒜はやっていない。そもそも苦手なのだ。
聖路都の連中は気さくだがレベルは非常に高い。環境も申し分ない。ポジションは2段階ほど下がっている計算にはなるが、サラリーはそれほど悪くない。
ERは自分の想像以上の過酷さで、究極のオールマイティさが要求される…が、政治で椅子に座りっぱなしで腕がさびていくよりもずっとマシだ…と安蒜は考えている。
ネクタイをきちんと締め、身なりを整えて安蒜はマンションを出る。そのままマンションの地下にある駐車場に向かう。
最近ようやくクルマは良いものを買えた。それまでは中古の軽自動車に乗っていた。屈辱感でいっぱいだった。
買い換えた車は、レクサス・LBX。
西宮で乗っていたクラシックタイプのジャガーとはずいぶんと差はあるが、取り回しはいい。
(一歩一歩や)
安蒜は44になる。一足飛びですべてが動くわけではない。それを安蒜は良く知っている。
そうかみしめて安蒜はLBXを発進させる。
広い意味での復讐と再建中の人生の幕は、安蒜自身が上げる。
…
…
聖路都国際病院ER。
「…いや、ごめんってば西園寺 もう食べないから許して…」夜勤明けにほとほと困り果てている南。
「南先生、僕が千疋屋のプリン好きってわかってて食べてますよね?ホントマジダメですよ大人として!」同じく夜勤明けのプリンを楽しみにしていた西園寺が説教している。
西園寺が自分が喰うために買っていた千疋屋のプリンを、南に食べられていたことがショックだったようだ。
西園寺は酒もタバコもやらない。その代わり大の甘党だ。
「でも…南先生甘いもの食べませんよね…?なんで?」
「実はね…咲の娘に食べさせたんだよ…咲月ちゃんにね」真実を話す南。
「…ああ、そういうことでしたか…じゃあ許します」顔を緩め、あっさり許す西園寺。
「え、おい、あんた随分態度が違うじゃないか?」みっともなく逆ギレする南。
「諸君、おはよう…って何を揉めてんのや?」と安蒜がラウンジに入ってくる。
「安蒜おはよう…いやね、ちょっと西園寺のプリンをね…」
「おはようございます安蒜先生 現在異端審問中です」
「何を二人とも大人げないことを言っとるんや…」
そう言うと自分のスマホを取り出し、ティーバッグに熱湯を注ぐのと同時に、とある通販サイトに繋ぎに行く。
「ワシは…これや…」
プレバンで発売開始となったヴェンジェンスのHGを予約しようとする。
ヴェンジェンスは数あるシリーズの中でも特に人気のある作品だが、BLやGLの要素も含んでいるため、幅広い層に人気がある。
「ああ、あれか…お前さん本当に好きね」と南が言い終わらないうちに、
「ああああアカン!もう売り切れや…なんやねんこの速さ!10秒で売り切れるかしかし?」もううんざりという顔をしてスマホをソファに放り出す安蒜。
「BOT使ってるんだろうね転売ヤーは こないだ千歳警部補に教えてもらった 彼女はBOTの作り方まで教えてくれたよ?」ニヤリと笑う南。
「くっ…なんちゅう卑怯な連中や…それで南、そのボットっちゅうヤツの作り方は?」あっさりと毒に染まろうとした安蒜は南に聞く。
「…お前さん、PHPわかる?」
「松下幸之助がどうかしたんかい」
「…いや…いい…お前さんには無理…」南は大きくため息をつく。
「…ヴェンジェンスって…なんですかそれは…」アニメはさっぱりわからない西園寺が安蒜に聞く。
「限定モデルや…くっそ…納得いかんわー…」安蒜は別のサイトを立ち上げる。南の目にはそれがメルカリのトップページに見えた。
「えっ…おい安蒜まさかお前さん…」
既にキーワード登録していたのだろう、安蒜はサクサクと画面を進めて検索し、定価の3倍近い値段の付けてあるページの一つに行きつく。
「ポチッとな」
「うわー!ちょっと!転売ヤーにエサやってどうすんのよ!!」南が呆れ果てる。
「やかましわ 手に入れたいものはすぐに、手段を選ばずに手に入れる…それがワシのポリシーや」一歩一歩と言っていたこととは正反対の主張に浸りドヤ顔して答える安蒜。
「安蒜あんた最悪だな、スヴェータあたりが「資本主義のブタですネ!」って言いそうだぞ」ヴィルクの片言の日本語をマネしてなじる南。
「今はロシアも資本主義やんけ!南も西園寺も夜勤終わったんやったらとっとと帰りや!」
ラウンジの扉が丁寧に開き、ヴィルクが白衣姿で入ってくる。
「おはようございまスみなさン!…あレ、どうかされたのですカ?安蒜先生に南先生?」
「おはようスヴェータ、いや実はね聞いてよ、安蒜がね…」と言い始める南だったが、比較的日本のオタク趣味に寛容で、自らもスマホゲーのガチャを回していることを思い出し、あーこれは不利かも…と思っている。
「…というわけなんだ、どう思うスヴェータ?」最後は少し消え入りそうな声になる南。
「…そうですネ…資本主義の…あッ、これは言ってはいけませんネ!」人差し指を立てて講釈するかのように滑らかに喋るヴィルク。
「なっ、せやろスヴェータ、やっぱキミはわかってるでえ」
「資本主義のswineですネ!」にこやかに言い換えるヴィルク。
「おんなじやんけ!」年甲斐もなく地団駄を踏む安蒜。
「…あッ、訂正しまス。安蒜先生はswineではなく、あくまでpigですネ」勝ち誇ったように胸を張るヴィルク。
「どっちもブタやんけ…なんやねんその使い分け?」
「swineは…そう、もっと汚らわしい感じデ…Pigはもっト…欲張りでチャーミングな感じですカ?」
「なにがチャーミングや!チャーミング言うたら許される思うなよ!」
「安蒜先生、あなたは『卑劣漢(Кабан)』になるには、あまりにも趣味を愛しすぎていまス だから、ただの『欲張り(Свинья)』で十分ですヨ!」
「なんでやねん!」
そんな騒がしいラウンジに、ER受付の島が顔を出す。
「先生方…なんであんたら朝から元気なんだい…ワシは腰が…」
「なんや島さん、カイロプラクティックお勧めしたやん」
「まあわりと効いたんですけどね…それより安蒜先生、翡翠橋署の築城巡査部長が例の…あれの件で詳しくお話を聞きたいそうです」
「あー…ストーカー被害の件やね、わかった すぐ行くわ」
安蒜は飲みかけの紅茶を飲み干し、ヴィルクに「ガチャの回し過ぎには注意せえよ」と捨て台詞を残してラウンジを後にしようとする。
「私が回しているのはガチャではありませン!世界経済を回しているのでス!」腕を組みドヤ顔するヴィルク。
「…なんか話がややこしくなってきた…じゃあ私は帰るよ…おつかれ」心底疲れた顔をして南はラウンジを去る。
「……さて、僕も帰りますか…スヴェータ、あんまり経済回しすぎて給料日までカップ麺生活にならないようにね」
「大丈夫でス、西園寺先生 私は『計画的』な資本主義者ですシ、かっぷめんも大好きでス!スープまですべて飲み干しまス!Без проблем(ノープロブレム)」ウィンクして答えるヴィルク。
「うん…塩分の取りすぎには注意しようねスヴェータ」
…
「あの、すいません…手を包丁で切ってしまって…ちょっと血が止まらないのですが…こちらで良いですか?」物腰の柔らかそうな30前後の男性がER受付にやって来る。
「あー?いいっすけど、どんくらい血ィでました?」ぶっきらぼうに野川が応対する。
「…そうですね…このくらいですね」と止血に使ったタオルを野川に見せる。
「ちょ、おい、近づけんな…」患者という事を忘れ、思いっきり失礼な口調で野川が顔をしかめる。
「ああ…ご、ごめんなさい…」しかし男性は特に怒ることもなく、逆に恐縮している。
「…まあタオル一本分だったら確かに死なないけどね…見た目よりは出血量は少ないと思うよ」基礎的な医療知識は野川にも備わっており、とりあえず応急処置でガーゼを使い圧迫止血を試みている。
「そ、そうですか…ところでこちらに塚本さんというお医者さんがいると思うのですが…」
「あー…なにあんた、知り合い?」職員の個人情報保護のためのプロトコールがあるので、野川は簡単には塚本の所在は言わない。が、知り合いか?と聞き返している以上は、いると言っているようなものである。
野川は元キャバ嬢で横領した罪で服役していたが、現在は仮出所して更正プログラムの一環としてこの聖路都で受付をやっている…というかやらされている。
案外頭の回転は速いのだが、ここではどうもしくじったようで、個人情報の取り扱いとしては失格と言える。
しかし野川も男性もそれには気が付かない。
「…マコ!おいどうしたんだ!」廊下の向こうから歩いてきていた塚本が受付エリアを見て小走りでやってくる。
「哲っちゃん!ここは哲っちゃんがいる病院だからって知ってたから…ちょっと僕もうパニくってて…ほら!こんなに!」
「モナっち…お前ついに患者を手にかけるようになったのか…」塚本は半分冗談で野川に言う。
「あ?ふざけんな!てめえ!んなことするわけねーだろ!ほれ、包丁で切ったってさ」ペッと止血に使ったガーゼを交換して見せる。
「おおう…よし俺が診るからモナっちは受付よろしく」
「あーいりょうかーい塚本せんせー」
「…まったくビックリしたぜマコ…てっきり復縁を迫りに来たのかと思ったぜ…」
「…」
「…あ、こないだあんたが言ってた振られたってのは、この兄ちゃんか?」止血に使ったグローブを外しながら野川が尋ねる。
「ちょ…哲っちゃん!病院の人に言ってたのかい?」慌てるマコ…笹原誠と保険証には書いてある。
「そうとも…カワイイだろ?誠って言うんだよ…俺を振るなんてな…まったくな…」
「いやそうじゃなくてさ…その…カミングアウトというか…」うつむき加減になるマコ。
「…俺はそういうのは気に入らねえのさ…言いたければ言う、言いたくないなら言わない、それだけだろ」
「おー、あんたいいこと言うねえ…あーしもそういうのはキライでさ」ニヤリとする野川。
この時代の日本では、既に同性婚が法的に認められる一歩手前まできている。
LGBTが国を亡ぼす…などという考え方は古いものと考えられてはいたが、それでも根強く差別意識は残っている。
「そもそもな、蕎麦が好きかうどんが好きか、なんつーので人の価値は決められねえだろがよ」野川が正論をぶちかます。
「…」
「…」
「おっ、なんだよ、なんかおかしいか?」野川が怪訝そうに二人を見つめる。
「いや……モナっち、案外いいヤツだったんだな」感心したように塚本がつぶやく。
「!うるせーよ!ほら!早く行きな!カーテン2号だ!」少し照れたようにぶっきらぼうになる野川。




