第15話〜紫蝶、艱難辛苦を嘗める〜
朝鐘が鳴るよりも早く、部屋の扉が叩かれた。
「エリザベート様。起床のお時間でございます。」
私は慌てて起き上がるとまだ空は真っ暗。いつもなら、もう2時間は眠っているのに。
「…ちょっとぉ…いくらなんでも早すぎるんじゃあ…ないかしら?」
私はゆっくりと起き上がり、まだ目が覚めきっていない頭でなんとか声を出すと、扉の向こうから返ってきた声はとても冷たかった。
「…王妃教育は、早朝から始まります。これはどなたが王妃教育を受けるとしても変わりません。」
そう言って部屋に入ってきたのはメイド長似。この方が王妃教育を仕切っているみたい。…やっぱりメイド長だわ。
「本日は、音楽と馬術の授業を受けていただきます。食事はこちらに運んでまいりますので、身支度はお一人でお済ませください。」
「えっ…!1人で…?」
急に目が覚める私。身支度なんて1人でやったことないわよ…!
「それではよろしくお願い致します。」
慌てている私なんか気にせず、彼女はさっさと部屋を出ていってしまった。
ベッドにポツンと1人になった私。
「…こんなに厳しいなんて、聞いてないわよぉ…。」
そう呟いた私の声は、この質素な部屋に虚しく響いた。
朝食までになんとか服を着替えた私は、食事を終え、音楽の先生を待っていた。
昨日の内政学と絵画は今まで習ったことのない分野だったから出来なくて当然よ…。今日の音楽と馬術は習ったことがあるから大丈夫、できるわ。
ギュ…っと両方の手を強く握りしめながら心を落ち着けていると、部屋の扉がノックされ、夫人が1人入ってきた。
「…改めまして、フォネ・リーラと申します。よろしくお願い致します。」
背の小さい音楽の先生は、リーラ先生ね。ちゃんと覚えないと…。
リーラ先生は小柄だし、あまりお声が大きくないからそんなに怖くないわ。むしろそんなに厳しくないかも。
「それでは、本日はピアノのレッスンを致します。」
ピアノ…!私、ピアノは得意だわ!
「ふふ…私は公爵令嬢よ。ピアノくらいできますわ!」
自信たっぷりに答えた私を、リーラ先生はちらっと見てから
「…では、こちらの楽譜を。」
そう言って渡されたのは、コーディカス王国の国歌の楽譜。これはピアノを習う全員が弾けるようになる、基本の楽譜だった。
「まあ…これくらい簡単ですわ。」
私はウキウキとしながらピアノに向かい、国歌を弾き始めた。
私が国歌を弾き終わり、リーラ先生を見ると、先生はぴくりともしないで固まっていた。
まあ、私のピアノに酔いしれてしまったのね。
仕方のないことだわ、だって私は―――
「ダメです。」
「…へ?」
私は一瞬何と言われたのか分からなかった。
「ですから、全然ダメ。です。」
丸眼鏡の奥からじっと見つめる瞳は、何とも言えない威圧感たっぷりだった。
「だ、ダメって…どういうことよ!?完璧に弾けていたじゃない!」
私はリーラ先生の評価に全然納得がいかなかった。
だって、運指を間違えずに楽譜通りに弾けたもの!
するとリーラ先生は小さくため息をついて
「確かに、楽譜通りには完璧に弾けています。ですが、感情が足りていません。」
「ど、どういうことかしら…。」
全然理解ができていない私に追い討ちをかけるように
「要するに、エリザベート様の演奏は、全く心を動かされないということです。」
と、きっぱりと言い放った。
心を動かされないって…何よ。そんなの、聞く人によって違うじゃない。
「私の演奏のどこが悪いっていうのよ。」
私がリーラ先生に聞くと
「音楽は感情です。でも、貴女の演奏からは全く感情を感じられませんでした。―――コーディカス王国に対する愛や敬意を全く感じないのです。」
「じゃあ…もう一度弾かせてくださる?」
私は負けじとリーラ先生に言うと
「ええ…まだまだ私の持ち時間はありますので。」
どうぞと先生が言ったので、私は感情を意識してもう一度国歌を弾いた。
弾き終わってまたリーラ先生の顔を見ると、無表情のまま
「先程と何も変わっていないようですが。」
と私の演奏を評価した。私はカッとなって
「じゃあもう一度弾くわよ!」
と再度ピアノに向かった。
あれから何回弾いただろう。
指も段々痛くなってきましたわ。
私が何回弾いても、リーラ先生は「全然ダメです。」としか言ってくれない。
どうしてよ。ピアノは得意だったのに。
これじゃあお母様に怒られちゃうじゃない…!
私がもう一度弾こうとすると、リーラ先生が静かに
「…もう、結構です。」
と告げた。私は楽譜からバッと顔を上げ
「だ、ダメよ!私の演奏を先生に認めて頂かないとお母様に怒られてしまうわ!」
でも、リーラ先生はまだ無表情のまま
「そうですか。」
と言うだけ。そして
「それでは、私の授業はこれまででございます。」
と言って部屋を出て行ってしまった。
「あっ!ちょっ…まっ…待って…!」
そう言ってリーラ先生を追いかけようとしたけれど、ずっとピアノを弾いていたせいで立ちくらみをして倒れてしまった。
「いっ…たぁ…。」
私はぐらぐらする視界に気持ち悪くなりながら、なんとか座り込む。
「…どうしよう。お母様に怒られちゃうわ…。」
転んだことよりも、演奏が認められなかったことよりも、お母様に怒られることが1番嫌…!
とにかく、午後の馬術で持ち直さないと。馬術なら、感情がどうとか言われないはず。
私はまだぐらぐらする頭で必死に次の馬術の授業について考えていた。
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