第5話 重重重重重重重重重重
沈みゆく俺の意識を、必死に抱きしめ、引き上げようとする温かい光があった。
次いで、枯れ果てた内側にそっと生命の息吹が注ぎ込まれる。
――生きて……生きてください……っ!
泣き叫ぶようなその声に引かれるように、俺の意識はゆっくりと浮上していく。
重たい瞼をこじ開ける。
身体を動かそうとしたが、思い通りに身体に力が入らない。
俺は、いったいどうなったんだ?
たしか、冥界で双頭狼と戦って――そうだ!
みんなは!?
仲間たちのことを思い出し、ぼんやりしていた意識が一気にハッキリと覚醒する。
最初に感じたのは清浄な香の匂いだった。それから見覚えのある白亜の天井。すぐにここが、王都の大教会にある治療室だと気づいた。
そうか、俺、本当にあの迷宮から生還できたのか……。
早く、早くみんなの顔がみたい。
無事な彼女たちの顔が――。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
遅れて自分の側から誰かの声がすることに気づいた。
蜘蛛の巣のように耳に纏わりつく、聞いているだけで何処か不安になってくるような湿度の高い、深く、深く沈んだ陰鬱な声だ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――」
それは、異常な光景だった。
ベッドの傍らで、床に額を擦り付け、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣くエルティ。
見たことのない彼女の鬱々とした姿に、俺は心臓が止まりそうになった。
「エ、ルティ……?」
喉がひどく乾いていて、掠れた声しか出ない。
だが、その微かな声に反応し、エルティが弾かれたように顔を上げた。
「アルト、様……っ! ああ……っ、アルト様っ……!!」
彼女の美しいプラチナブロンドの髪は乱れ、目元は泣き腫らして真っ赤になっていた。
エルティは俺の手を縋るように両手で握りしめ、再び床に崩れ落ちるようにして泣き叫んだ。
「わたくしは、知っていたのに……っ! アルト様が、わたくしたちのために、あんな……あんな悍ましい死を、何度も、何度も、何度もッ!」
ドクン、と。
俺の心臓が、跳ね上がった。
エルティは、今なんて言った……?
俺が、何度も死んだって?
まさか――バレたのか?
だが、どうして……絶対に隠し通すつもりだったのに。
どうやってエルティは俺の【死甦の加護】に気づいた?
いや、今はそんなことよりも――どうして、あの迷宮から無事に生きて帰ったのに、エルティはこんなことになっているんだ?
「エルティ……お前、どうしたんだ?」
まだ上手く声が出せない。そんな自分自身がじれったくて、俺は声をかけるより彼女に寄り添おうと身を起こす。しかし、今の俺にはそれも難しいことだった。
「……っ!」
「アルト様……っ!」
上手く身体を動かせず、無理やりベッドの上で身をよじった俺はベッドからずり落ちそうになる。結局俺は寄り添おうとしたエルティから逆に肩を借りて身を起こしてもらうことになってしまった。
「わ、悪い。エルティ」
「謝らないでくださいませ……。謝らなければならないのはわたくしの方です……ずっとずっと、貴方様にばかり苦痛を押し付けてきました。わたくしは……わたくしはっ……!」
エルティが俺の胸に顔を押し付けて嗚咽まじりに涙する。
なんでそんなに泣いてんだよエルティ……泣かないでくれよ……。
「エルティ、大丈夫だ。大丈夫だから……」
何が大丈夫なのかわからないけど、とにかくエルティに泣き止んで欲しくてそんな言葉が口をついて出た。
俺は、昔から人に泣かれるのが苦手なんだ。どうしたらいいかわからなくなるし、どうにも共感性みたいなものが強い性格柄、自分も悲しくなってくる。だから、俺の前ではみんなに笑っていて欲しい。そうしたら、俺も一緒に笑えるから。
でも、そんな俺の願いとは裏腹に、俺が慰めるほどにエルティは「ごめんなさい」と繰り返す。
「お兄ちゃん!」
「斥候殿!」
誰かが治療室の扉を勢い良く開ける。
そこにはミラとレイナの姿があった。
二人とも、エルティと同じように顔をくしゃくしゃに歪ませて俺を見ている。
「なんで……お前たちまで、そんな顔をしてるんだよ……。みんな、何があったんだ?」
俺の問いに、エルティが震える声で答えた。
「わたくしが……アルト様の消えかかる魂を繋ぎ止めるために、〈魂の接続〉を行いました。その過程で、アルト様の深層意識に触れ……すべてを、視てしまったのです。貴方が、あの迷宮の扉の前で、どれほどの死を繰り返してきたのかを」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
魂の接続。高度な神聖術の存在は知っていたが、まさかそれで記憶まで覗かれるとは思ってもみなかった。
「全部、視ちまったのか……?」
「はい……っ、はいっ! すべて……。アルト様が、わたくしたちが死ぬ度に、一切の躊躇いもなく自らの命を絶ち……そして、あんな地獄を経験した直後に、わたくしたちの前で無理に笑顔を作っていたことも……っ!!」
最悪だ。
俺は血の気が引いていくのを感じた。
知られたくなかった。数えきれないほど彼女たちを死なせた俺の無力さを。世界の理から外れた、死を繰り返すバケモノの姿を。
「ごめんなさい……っ! ごめんなさい、お兄ちゃんっ……! ミラが、ミラが弱かったから……! ミラが足手まといだったから、お兄ちゃんがいっぱい痛い思いをして、いっぱい死ななきゃいけなかったんでしょ……っ!?」
ミラが俺の腕にすがりつき、顔を押し当てて嗚咽する。
「拙のせいだ……。拙の剣が届かず、拙が己の身すら守れなかったせいで……其方に命を削らせた……。其方が血を流し、心を砕いている間、拙は何も知らず、己の力で戦っていると過信していた……! なんという恥晒しだッ!」
レイナが床に拳を叩きつけ、額から血が滲むほどに強く打ち付ける。
「わたくしの甘えです……! アルト様の放つ生命力の翳りに気づいていたのに、わたくしは貴方の笑顔に甘えて、見て見ぬ振りをしてしまった! 貴方がたった一人で絶望を背負っているのに、わたくしは……!」
三人が三人とも、まるでこの世のすべての罪を背負ったかのように泣き叫んでいる。
彼女たちの心は、俺の死の記憶と、それを知らずにいたという罪悪感によって、完全に押し潰され、壊れかけていた。
嫌だ。
俺は、こんな顔をさせるために死に戻りを繰り返したわけじゃない。
彼女たちに罪悪感を抱かせて、一生消えない傷を負わせるために、自らの首を掻き切ったわけじゃない。
俺はただ、大好きな仲間たちと、笑って生きて帰りたかっただけなのに。
彼女たちが泣いている。俺のせいで。
ならば、俺がすべきことは一つだ。
「……何を、そんなに泣いてるんだよ、お前ら」
「アルト、様……?」
「泣くなよミラ。お前の可愛い顔が台無しだぞ。レイナも、そんなに床を叩いたら怪我するだろ。エルティなんて、顔中ぐしゃぐしゃじゃないか。せっかくの美人が台無しだ」
「お兄ちゃん……怒って、ないの……? だって、ミラたちのせいで、お兄ちゃんは……」
「怒るわけないだろ。バカだな、お前たちは」
俺は震える手を伸ばし、ミラの頭を優しく撫でた。
そして、床に跪くエルティとレイナの肩にそっと触れる。
「俺が勝手にやったことだ。俺は、お前たちに生きていてほしかったんだ。一人でも欠けるなんて、絶対に嫌だった。だから、お前らが気にすることじゃない」
「ですがっ……貴方はっ……あんなにっ、あんなに独りで痛い思いをしてっ!」
「いいんだよ。あれくらい、大したことないさ。俺は死んでも生き返るんだから、安い命の使い方だろ?」
本当は痛かった。発狂するほど怖かった。二度とあんな思いはしたくない。
「いいか? 迷宮は攻略できた。バケモノは死んで、俺たちはこうして四人揃って、無事に王都に帰ってこられた。それがすべてだ」
「…………」
「今こうしてお前たちと生きて居られるんだから、もうそれで良いんだ。お前たちが自分を責める必要なんて、どこにもない。だから……もう、笑ってくれよ」
「アルト様は……」
不意に、エルティがゆっくりと顔を上げた。
ボロボロと零れ落ちていた涙が、嘘のようにピタリと止まっている。
俺は、彼女と目が合った瞬間、背筋に冷たい氷をねじ込まれたような悪寒を覚えた。
絶望と罪悪感に濡れていたはずの美しい碧色の瞳から――スッ、と。
聖女としての理性を保っていた光が抜け落ちていた。
虚ろに濁った瞳孔の奥底から、泥沼のような、決して逃げることを許さない狂信的な熱がどす黒く燃え上がってくる。
「アルト様は、そうやって……また、わたくしたちの前で笑うのですね」
「エ、ルティ……?」
「あんな地獄を一人で歩いてきたのに。わたくしたちのせいで、魂が消えかかるほどの痛みを負ったのに。貴方は、自分を傷つけたわたくしたちを責めるどころか、またそうやって……自分を犠牲にして、わたくしたちを慰めようとする」
エルティの細い指が、俺の腕を強く、骨が軋むほど痛いくらいに掴んだ。
焦点の合っていない、けれど確実に俺のすべてを捕食しようとする目で、彼女は歪な微笑みを浮かべる。
「あんな地獄を一人で歩いてきたのに。わたくしたちのせいで、魂が消えかかるほどの痛みを負ったのに。貴方は、自分を傷つけたわたくしたちを責めるどころか、またそうやって……自分を犠牲にして、わたくしたちを慰めようとする」
エルティの細い指が、俺の腕を強く、痛いくらいに掴んだ。
「なんて、残酷な優しさなのでしょうか」
彼女の言葉に、ミラとレイナもゆっくりと顔を上げた。
二人の瞳にも、エルティと同じような、底知れぬ暗い炎が宿っていた。
「そうだよね……。お兄ちゃんは、そういう人だよね。自分のことなんてどうでもよくて、ミラたちのために全部背負い込んじゃう」
ミラが俺のもう片方の腕に絡みつき、自分の胸に強く抱き込む。
「だから、ダメなんだ。お兄ちゃんを、これ以上一人にしちゃダメなんだ」
「……ああ。斥候殿。其方のその優しさは、尊く、そしてあまりにも危うすぎる。其方は、放置しておけば、またわたくしたちのために平然と命を捨てるのだろう。だから――」
レイナが立ち上がり、俺を見下ろすようにしてベッドの傍らに立った。
彼女の銀色の瞳には、かつての騎士としての誇りとは違う、何かに取り憑かれたような執着の光が宿っている。
「え……お前ら、ちょっ……何してんだ!?」
三人が揃って、俺を押しつぶすように抱きしめた。
「お兄ちゃんのことはミラが一生面倒見てあげるから、もう危ないことはしなくていいよ」
「もう、絶対にアルト様を傷つけさせません。たとえそれが、貴方様ご自身であっても」
「斥候殿。拙は其方の剣となり、すべての外敵を討ち果たして見せる」
慈愛に満ちた聖女。生意気で可愛かった義妹。凛として誇り高かった女騎士。
彼女たちの表情は、俺が知るものとはまったく異なっていた。
「アルト様のすべてを、わたくしたちが管理し、お守りします」
「ずっと、ずっと一緒にいようね、お兄ちゃん……」
「拙らはもう其方だけに苦しい思いはさせん。これからは、喜びも悲しみも全部、全部、分かち合おう」
俺は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
迷宮の怪物と対峙した時とは別種の、狂気的な恐怖。
「え……あの…………」
俺はただ、平穏に笑い合える日々を取り戻したかっただけなのに。
どうやら俺は、あの地獄の迷宮よりも恐ろしい世界に足を踏み入れてしまったらしい。
窓から差し込む王都のあたたかな陽光の中で、俺は三人の美しい仲間に強く抱きしめられながら、ただ為す術もなく凍りついていた。
どうして、こうなったんだ……?




