第3話 滅滅滅滅滅滅滅滅滅滅
「レイナ、跳べッ!」
俺の指示と同時、床スレスレを亜音速で薙ぎ払う双頭狼の尾が空を切った。
だが、レイナがすかさず跳躍したことで、無慈悲な一撃が彼女を傷つけることはない。
「レイナッ! 右の首を狙え!」
「承知ッ!」
地を駆ける俺を狙い、今度は双頭狼の右頭が炎を吐き出そうとする。
だが、そのモーションが見えるよりも前に俺が指示を出したことで、レイナの放った剣閃が先に双頭狼の右の鼻面を正確に切り裂いた。
奴は痛みに仰け反り、炎のブレスは天井に向かって誤射される。
灼熱が頭上で弾け、熱風が俺の頬を撫でた。
レイナの攻撃に双頭狼の左頭が激怒の唸りを上げ、巨大な顎を広げて彼女へと突進する。
鋭利な牙の隙間から滴る唾液。眼前に迫る血走った怪物の眼。今にも命を刈り取らんとする殺意。
このままでは、レイナの上半身と下半身が泣き別れになる。
だが――。
「……三、二、一――今だ、ミラ!」
「〘氷結〙ッ!!」
レイナに迫っていた双頭狼が、突如として凍り付いたフロアの床に足を滑らせる。
「ガァァッ!?」
巨体のコントロールを失い、急ブレーキをかけることにも失敗した双頭狼がよろめく。その巨大な質量がバランスを崩し、初めて晒された完全なる無防備。
俺は床を蹴り、無数の死で磨き上げた最速の踏み込みで双頭狼へ肉薄する。狙うのは、左の頭の眼球。
「ア゛ァァァァッッ!」
俺は無意識に喉が焼けるような咆哮を上げ、短剣を振りかぶった。
そして、双頭狼の目へと深々と突き立てる。
剣身が眼球を貫く確かな手応え。
「グゥ――――ッ!!」
かつてない激痛に、迷宮の王が狂ったように身悶えした。
そんな隙を俺たちが見逃すはずない。
「聖女殿! 拙に加護を!」
「はいっ! 大いなる光よ、勇猛なる者に破邪の剣を! 〈魔を滅する刃たれ〉!」
エルティの神聖術がレイナの銀剣を眩い白光で包み込む。
レイナは床を強く踏みしめ、全身のバネを解放するように跳躍した。
「ハァァッ!!」
レイナの裂帛の気合いと共に閃光が奔る。渾身の斬撃が、右の頭の首筋を一閃し、そのまま両断した。
――ドゴォォォォンッ!!
地響きを立てて、片方の首を失った双頭狼が地に沈む。大量の血飛沫が舞い散り、この空間を支配していた圧倒的な死の気配が、小さくなっていくのを感じた。
それでもあのバケモノは生きている。怒号を上げて、起き上がろうと藻掻く。
「いい加減っ、死にやがれっっ!!」
俺にレイナほどの剣技はない。それでも、寝転がる犬っころにトドメを刺すくらいはできる。
積もり積もった死の怨嗟を込めるように、短剣を振りかぶる。
そして、奴の首筋に突き立てた――。
「グオォォッ――」
双頭狼の残った頭から、小さく、恨みがましい断末魔が鳴った。
そして、奴は永遠にその動きを止める。
暫しの静寂が訪れ、立っていられなくなった俺は片膝をつく。
勝った……のか?
エルティも、ミラも、レイナも、俺も。
誰一人欠けることなく、そこに居た。
「手応え、有り!」
「や、やった……! やりましたわ、皆様!」
「あの、怪物を……本当に、本当に倒せたっ……! やったよお兄ちゃん!」
歓喜に湧く仲間たちの声が、ひどく遠くに聞こえた。
長い長い戦いが終わったのだ。けれど、自分の中でその現実を消化しきれていない。
ただ、疲労に溺れ、水の中に沈んでいくような感覚だけがあった。
あ、やばい。
みんなの喜ぶ顔を見ていたら、張り詰めていた心の糸がプツリと音を立てて切れた。
「ごふッ……」
喉の奥から鉄錆の味が込み上げ、俺は大量の赤黒い血を吐き出した。
鼻から、目から、血が溢れ出す。視界がぐにゃりと歪み、身体が倒れる。
なんだ?
いつの間に攻撃をもらっていた……?
「え……お兄、ちゃん……?」
「アルト様ッ!?」
ダメだ、今、死ぬわけには……せっかく倒したのに。
いや、もうあのバケモノはない。
きっと、エルティがどうにか――――。
誰かの悲痛な叫び声を聞きながら、俺の意識は闇に溶けていく。
しかし、その間際、俺は安堵の息を吐いていた。
ああ、これでもう死ななくてすむんだ。
◆
「アルト様! アルト様ッ!!」
エルティメシアの絶叫が迷宮の最奥に響き渡る。
崩れ落ちたアルトの身体を、彼女は床に這いつくばるようにして抱きとめた。純白の聖衣がアルトの血で赤黒く染まるが、そんなことは少しも気にならなかった。
ぐったりと力を失ったアルトの顔は、死人のように蒼白に染まっている。
目、鼻、口から止めどなく血が流れ落ちていた。しかし、不可解なことに彼の体には大きな外傷など存在しなかった。驚くべきことに、あの絶望的な怪物の猛攻を、彼はほとんど無傷で潜り抜けたのだ。
だというのに、彼は土気色の顔で死にかけている。
(毒!? でも、双頭狼が毒を使うなんて情報は……いえっ、今はそれどころではありません!)
「豊穣なる大地の恵みよ、斯の者に御手を差し伸べ給え! 〈清浄なる癒し〉!」
エルティメシアは震える両手でアルトの胸に触れ、自身の持つ最大の神聖力を注ぎ込んだ。
眩い黄金の光がアルトの身体を包み込む。
しかし。
「どうして……どうして神聖術が効かないのっ……!」
エルティメシアの顔が絶望に歪む。
神聖術による癒しは、対象の生命力に呼応して肉体を再生させる。だが、エルティメシアの手のひらから伝わってくるアルトの生命力は、まるで老木のように枯れ果て、中身が空洞になっているかのように虚ろだった。
「まさか……これは、呪い!?」
事情を知らないエルティメシアは、それを何らかの呪いによる影響と考えた。だが、そうではない。
これは【死甦の加護】の力を行使していたアルト本人でさえも知りえなかったことだが、彼は度重なる死を短期間に繰り返したことで、魂が――生命力そのものが極限まで摩耗し、今にも消滅しようとしていたのだ。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん、目を開けてよッ!」
ミラが杖を放り出し、アルトの冷え切った手にすがりついて泣き叫ぶ。
幼い子供のように、ミラはアルトの手を自分の頬に擦り付け、ボロボロと涙をこぼした。
「やだ、やだあッ! 死なないで、お願いだからミラを置いていかないでよぉッ!」
「……っ! 斥候殿……!」
レイナもまた、血の気を失った顔でアルトを見下ろしていた。
彼女の銀色の瞳が、激しい後悔と自責の念に揺らいでいる。
(思い返せば、この戦闘での斥候殿の立ち回りは異常であった)
双頭狼のあらゆる攻撃を、まるで未来を視ているかのように先読みし、仲間である自分たちの動きすらも正確に誘導した。
(まさか……拙らを導くために、自らの命を削るような特別な力を使っていたのか……!?)
戦いの前、いつになく不自然に明るく振る舞っていたアルトの笑顔が、レイナの脳裏に蘇る。
自分たちに気負わせないため、たった一人で命を燃やし尽くして、勝利の舞台を整えたのだとしたら。
「拙は……なんと無力なのだ……! 其方の背を守り切れず、命を削らせていたなどッ!」
レイナは己の無力さに唇を噛み切り、血を流した。
「これ以上、落ち込んでる場合じゃない! レイナ! 迷宮核を壊してッ! 早くお兄ちゃんを連れてここを出ないと!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたミラが叫ぶ。
フロアの最奥に鎮座する黒い水晶体――迷宮核を破壊すれば、この迷宮の外へ直結する転移門が開く。
「わかっているッ!」
レイナは銀剣を構えて駆けると、迷宮核へと鋭い一撃を振り下ろした。
甲高い破砕音が響き、黒水晶が粉々に砕け散る。
直後、空間が歪み、蒼黒い光を放つ転移門が虚空に出現した。
そして、迷宮核を失った迷宮は、直に崩壊を始める。
「急ぎましょう! 王都の大教会へ向かいます! 設備の整った祭壇で高位神官たちと共に儀式神聖術を行えば、彼の魂を繋ぎ止めることができるかもしれません!」
エルティメシアの言葉に、レイナがすぐさま剣を鞘に収め、血まみれのアルトの身体をそっと抱き上げた。
「軽い……」
レイナの口から、微かな呟きが漏れる。
鍛え上げられた青年の肉体が、ひどく軽く感じた。
まるで、彼を構成していた大切な何かが、抜け落ちてしまったかのように。
「お兄ちゃん、死なせない……絶対に死なせないから……!」
ミラが、転移門へと向かって駆け出す。
エルティメシアとレイナも、必死の形相でそれに続いた。
(どうか、どうか女神様……アルト様をお救いください。そのためならば、わたくしに差し出せるものならば、なんだって差し出してみせますから……!)
エルティメシアは涙で視界を滲ませながら、心の底から祈った。
彼女たちはまだ知らない。
死の淵を彷徨うアルトが、どれほど残酷で、どれほど悍ましい地獄を繰り返してきたのかを。
彼が迷宮から生還するために、無数の死を経験してきたという、狂気に満ちた真実を。
だが、本来であれば明かされるはずのなかった地獄の記憶が、まもなく王都での治療の過程で白日の下に晒される。
それは、彼女たちの心を深い罪悪感と絶望の底へと叩き落とすことになった。




