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秘密の扉 6

 クラーエスは久しぶりに一人、祖父の書斎に入ってみた。気を楽にしたくて、寝間着にガウンという格好だ。暖炉の火が暖かい。

 こういう時は誰かと酒を飲むもの、という気分もあったが、口にしないと誓った事柄をうかつにしゃべってしまいそうな気がして、やめた。

 祖父の椅子に座る。

 この書斎に入るのは、祖父が他界してから初めてかもしれない。静かな部屋に、生前の祖父の気配がまだ濃く残っていた。

 祖父は武人として名を馳せた方だったが、戦のなくなった晩年は読書にもはげまれ、書斎には多くの本が集められていた。庶民の愛する英雄譚、過去の豪傑たちに語らせた素晴らしい人生訓や処世訓。祖父はそういうものを好まれた。

 初陣は、十五歳の時。今のクラーエスよりも若い。学問の機会は少なかった。祖父は学がないことを内心では悔やんでおられたのだろう。クラーエスには小さい頃から家庭教師をつけ、学問を身につけさせた。

 クラーエスはまだ戦場に出たことがない。

 自分を殺すつもりで押し寄せてくる多数の敵と対峙したことがない。

 冥王とまみえる恐怖と勇気とは、いったいどのようなものなのだろう。

 祖父は十八の歳の大戦争の最中、目の前で父上に戦死され、その場で一等公爵の爵位を継いで軍の総大将になった。それが公爵というものだからだ。祖父は、経験の浅い若造の自分に命を預けてよいものかと固唾を呑む万の味方の兵士たちと、対峙する万の敵陣を一望して、震え上がらなかったのだろうか。

 ぼんやりと椅子の中に沈んでいたら、執事がやってきた。

「お客様です」

 差し出されたトレイに載せられた名刺を取り上げ、クラーエスは声を上げた。

「マデリーネさまがいらしたのか」

 執事は別室に貴婦人を迎えるための身支度を調える用意をしていることを伝えた。

 急いで着替えをすませて客間へはいると、すぐにマデリーネさまが顔を上げられた。

 この方は、王家と生家との確執の中で、実は難しい立場でおられるのだ。そのことをクラーエスはようやく思った。

「今日はお休みでしたのね」

「はい。国王の避寒旅行時の振替が今日に当てられたのです」

「そうでしたか。では間が悪かったかしら。でも、よろしかったら、今日、王城へ行っていただけます? エリノルが塔を降りてきます」

 クラーエスは驚いた。

「塔を出て、大丈夫なのですか?」

「ええ。あなたとも話がしたいそうなの。それとも、エリノルにはこちらの屋敷をうかがうように伝えましょうか?」

「いえ。わたしが城にまいります」

「そうしていただけると助かるわ」

「マデリーネさま、それを伝えるために、ご自身でわざわざいらしてくださったのですか?」

 召使に手紙を持たせればすむことだっただろうに。

「少し気になっていたの。あなたがあのお話を過敏に受け取ってはいないかと」

 クラーエスは少し視線を落とした。

 正直、まだ、上手く受け止めきれずにいる。

「わたしが、エリノルに会ってもよいのでしょうか」

「もちろんよ。魔法が自分に返ってくることはよくあることなの。あなたのお祖父様が戦争で隻眼となられたように」

 祖父は片眼を失った自分の人生をまっとうされた。武人なら、覚悟の上だ。

「エリノルには、本当に申し訳ないことをしてしまったと、心から思っております。愚かなことをしたと」

 クラーエスは頭を下げた。

「鍵を渡したのはエリノルです。あまり気に病まないでください」

 クラーエスは感謝をこめて、身を起こした。

「エリノルは午後には城に到着するでしょう。あなたもその頃に城にいらして」

 さらに互いのつつがない近況をいくつか語り合い、マデリーネさまはいとまごいをした。クラーエスはマデリーネさまの手を取るために、手を差し出した。誓いを交わした騎士と貴婦人の挨拶だ。

 ところが、マデリーネさまはじっとクラーエスの手を見下ろし、ためらいを見せた。

「クラーエス……。やっぱり、もうひとつ、お話しておきたいことがあるの」

「なんでしょうか」

「あの聖シャルロッタの日に、わたしは礼拝には行ってはおりません」

「は?」

 クラーエスには突然の、予想外の告白だった。

「殿下もご存知です」

「いや、しかし……」

「ごめんなさいね。神聖な儀式をすっかりダメにしてしまって。あの頃、わたしはあのような集まりに行くことが出来なかったのです。気が塞いでしまって。わたしたちの結婚をこころよく思わない方々がいらして」

「祖父もその一人だ。急先鋒だったに違いありません」

「あのような場に出ると、耳にしたくない囁き声がどうしても聞こえてくる。とても行けなかったのです」

「ですが、わたしは確かに誓いを捧げました。あのお姿は魔法ですか? あの、影のような?」

「あれはエリノルなの」

「はえ?」

 クラーエスは変な声をあげていた。目を丸くし、口をぽかんと開けたまま、立ち尽くす。

「あの頃エリノルは非公式に我が家へ遊びに来てくれていたの。殿下もとても歓迎してくださったわ。ひとりぼっちのわたしを心配していたのね。儀式のとき、気持ちが萎えていたわたしを見て、エリノルがこっそりかわりに行ってくれたの」

 マデリーネさまはちょっと口をつぐんだ。

「わたしはあの時、まだ騎士の儀式のことを知らなかったものだから、それでなんだかおかしなことになってしまったわね」

「は、はあ……」

 クラーエスは目をまたたいた。

 あれは、エリノルだった?

 あの日の記憶がめまぐるしく心に巡った。空は青く、緑は濃かった。古く由緒ある礼拝堂の廊下にあらわれた白い聖衣の姿。風に揺れたベールの奥のほほえみの気配。誓いのために差し出された剣は、確かにクラーエスの肩に当てられた。

 あれは、エリノルだった?

「あの日のわたしは愚かでした。あなたを偽り続けました。許していただけますか?」

「そ、それはもちろんです。マデリーネさま」

 クラーエスは急いで同意した。

「聖シャルロッタの日に王族の義務である礼拝を欠席し、自分の騎士を持たない不名誉は、わたしのもの。あなたにまで正しい自分の貴婦人を持たない不名誉を与えてしまって。一生黙っていようと思っていたのだけれど」

 クラーエスはまだ混乱をきたしていたのだが、とっさに胸に手を当てた。

「誓いはなくとも、マデリーネさまはわたしの心の貴婦人でした。そしてこれからも、永遠に」

「ありがとう。美しいお別れね」

 マデリーネさまはやさしく微笑んだ。たおやかで優しげなお顔には、守って差し上げねばならない弱々しいものはない。

「エリノルは、以前あなたと殿下がお話をした西院の外苑で待っています」

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