秘密の扉 5
「またエクスドッターのワインか」
王が渋い顔をした。
クラーエスは国王に呼び立てられ、執務室の隅に立っていた。
「これは失われた技術をよみがえらせたスパークリングの一種だそうでございます」
召使が申し上げた。直立不動のクラーエスに気を留めることなく、部屋の中央に精力的な様子で座る国王は、ワイングラスを持つ手を遠くへやった。グラスの中でぱちぱちと気泡が弾けている。
「エクスドッター州の大干ばつは五年も前の話だ。国王が惚れ込んだとの宣伝は国内外に行き渡ったであろう。いつまでも国庫をこれにばかりつぎ込めん。次の春にはまたブリリオート川の洪水があるかもしれんのだ。工事はさっぱり進んでおらんと巡回視察使からの報告があった。ファルク卿にあれこれ任せてみたが、どうも手に負えておらんようだな」
ぶつぶつと言って、それでもすべて飲み干したグラスを召使に戻す。
「面白いと王が言ったと伝えておけ。これはあとどれくらい残っておる」
「百本ほどかと」
「全部ハンメルトのソフィアに送っておけ。王妃のサロンでみなに飲んでもらおう。口直しにブルムダールのワインだ。ピーア種がいい」
国王が手を振り、召使がワイングラス共々退出していった。
その後も国王のそばには次々に官吏や召使があらわれ、国王に何かを囁き、書類を差し出し、献上品をお目にかけた。国王はそれに何かを答え、側近や顧問たちの助言に耳を傾け、書記に何かを書きとらせ、献上品を眺め時々手に取り、用を終えた官吏たちがしりぞいた。その間にも常に国王の背後にいる召使たちが国王の必要を見計らって書類を差し出し、地図を広げ、絹布で国王の指先をぬぐい、ブルムダールのワインも運ばれて国王はそれを飲んだ。
一度だけ、国王はクラーエスに視線を向けた。
だがすぐにそれは戻されて、はっと一歩出かかったクラーエスは、再び壁際の立ち位置に戻った。
ようやく官吏がすべていなくなり、側近たちも退出し、国王は手元の書類に何かを書き込みながら召使に言った。
「国務大臣には少し遅れると伝えてくれ」
召使も去り、あとは国王がペンを走らせる音と紙をめくる音だけが残った。
「クラーエス」
とうとう国王陛下が呼ばわった。
「そばへ」
「はっ」
クラーエスは近衛の振る舞いのまま、国王に歩み寄った。
「弟がそなたをたいそう不憫がっていた。王家の秘密を知りたいそうだな」
エドヴァルド王弟殿下は国王の心を動かしてくださったのだ。クラーエスはそう悟り、覚えず背筋を伸ばしていた。
「はい」
国王のクラーエスを見やる目は厳しい。どこまで、どのように語るか、どれだけなら相手が正しく聞き取れるか、クラーエスの器量を容赦なく吟味している。
「ウルリーカも聞きたがっている。小賢しいことを言ってわたしを脅しにかかった。手を焼かせるわがまま姫君だ」
「姫はひとりぼっちなのです。母上もおられず、姫の心は今でもまだあの最上階の病室から出られないのです。陛下が優しい言葉をかけられれば、姫も心を開かれることでしょう。どうか陛下も姫をもっと気にかけて差し上げてください。ともに過ごす時間を増やし、二人の楽しい時間を増やしてください。姫が欲しているのは陛下の愛です」
だが、国王の目には、なんら感銘を受けた色は浮かばなかった。
「お前が父となった時にはそうするがよい。国王への説教は以上か?」
クラーエスは口をつぐんだ。その時、扉が開いて召使がウルリーカ姫の入室を宣言した。
王は最後の書き付けを素早く終えた。ペンを置く。
「さあ、おいで、姫。待ちかねたぞ」
国王が満面の笑みで手招いた。
「父上、クラーエスまで呼んで、なんのお話ですか?」
「王家の秘密だ。姫ももう知ってよい年頃だ。そうだ。そうだよ、姫。ずっと、教えろとせがんでいたであろう?」
王の口調はどこか恩着せがましい。これが王に示せる最上級の愛情なのだ。姫の顔はぱっと輝き、すぐに不審が取って代わった。
「クラーエスにも打ち明けるのですか? 王家の秘密を?」
「クラーエスの祖父も知っていたことであり、クラーエスもいずれ知ることになる。今、二人一緒に聞かせよう」
姫はまだ不服そうにしていたが、とにかくうなずいた。そして王の隣に据えられていた椅子に座る。
「さて、わたしは愚王かもしらんが」
いきなりそう語り始めた国王は、そこで冷酷なまなざしをクラーエスにひと当てした。
「わざわざ否定せんでもいい。派手な手柄のない王は、愚王、凡王と評されるのだ」
クラーエスは口を閉ざした。
「わたしは愚王かもしらんが、やってはならん事くらいはわかる。時に強い誘惑ではあったが。戦いの時代に、あの扉が絶大な力を発揮するだろうとわかっていて手放す王はいない。だが、わずらわしい物事が一気に解決するとはいえ、あの扉は平時には有り余る力だ」
あの扉?
話の筋が見えなかったが、クラーエスは口を挟むことを差し控えた。国王は国王の道を進むのだ。
「ことの起こりは、歴史だ。わがアルムクヴィスト王家の始祖は、王国建国の際、根強く刃向かう異民族を追い払うのに実に手っ取り早い手段を選んだ。捕虜となったフネスリーデンの魔法使いの魔法、冥府の王の力の召喚だ。それはエイジェルステット家の魔法を凌ぐ魔力が手に入る術だった。冥府の王はたやすく太祖王に力を貸したが、それには取引があった。太祖王の十年後の命だ。それが二人の王の間で交わされた誓約だった。太祖王は十年あればじゅうぶんと思ったのだろうな。実際十年で戦争に勝ち建国を果たし王として君臨し、すべてをやり遂げて冥王の使いと共にすみやかに冥府へと去ってゆかれたと言われている。ハンメルトの別荘やハルハーゲン館といった多くの館が、冥王との誓約から逃れるために王都から離れた風光明媚な土地に造られたと、かの輝かしい業績を前にして言う者はいない。せいぜい建築道楽な性癖であられたとみなすだけだ。すでに遠い昔の話。真実はもはや誰にもわからない。ともかく、誓約に従い王は冥府へ去られた」
だが、と国王は言葉を継いだ。
「だが、太祖王が開いた冥府への扉は地上に残されてしまった。一度開かれた扉を消滅させる方法は、この世にはない。扉は今もこの王城のどこかにある」
「この王城に? まあ、この城にあるのですか?」
「お前たちはまだその場所を知らずともよい」
姫はぎゅっと唇を噛んだ。
「さて、今から十年前のことだ。そなたが」
王はウルリーカ姫の顔を覗き込むように身を傾けた。
「そなたがこの王城の中で行方不明になった。幼い姫は、ちょっとした散歩のように部屋を出ただけだったのだろうが、行き着いた先が非常にやっかいだった」
王はそこで口を閉ざし、クラーエスと姫に時間を与えた。
「まさか」
クラーエスが何かに思い至ったのを見て、国王はゆっくりと口を開いた。
「そう、冥王の扉だ。姫はそれを、開いてしまったのだよ」
「わたしが?」
姫はあまりの事にびっくりして息をのんだ。
秘密の扉をしまい込んだ大部屋に気を失った姫を発見したのは、国王自身だった。国王は何が起こったのかを瞬時に悟った。
冥王と太祖王の誓約は、この扉がここに存在する限り有効だ。だからこそ閉じ続けることが歴代の国王に課されてきた。冥府の王の力は、人が御すには強すぎる。命を渡し、扉を閉じなければ、冥王が地上に君臨する。
「わたし、どうなったんです? わたし、冥王なんて知らないわ」
「冥王の扉を知らずに開けてしまった姫には、古の誓約に従って、無限の力と十年の命という限られた時間が与えられた。乳母は泣いた。王城のどこかにある、開くことのない不思議な扉の御伽話を聞かせた自分のせいだと」
国王は足を組み替えた。
「わたしは王家の魔法研究者らと図り、姫の力の発現を押さえ、同時に姫の存在を冥王から隠すことにした」
そんなことができるのか? どうやって?
「王城の最上階に作った姫の病室だ」
あの部屋が。
「あの病室は、もちろん、姫を冥王から守るため。そして、国を姫から守るため。わたしは国中の魔法使いをかき集めた。今となっては本物は珍しくなった魔法使いやあの病室に莫大な国庫を費やすことを、さすがのそなたの祖父も黙認した。何も知らぬ王妃が娘の奪還を企んだこともあったが、あの程度の計画で破れはせん。しかし、結局はうまくいかなかった。姫の方はなんとでもなったが、冥王はその程度の魔法はたやすく踏み越えた」
「踏み越えた?」
クラーエスが聞き返した。
「しかし、だったら姫は」
それ以上の言葉ははばかられた。
姫はぼうっと話に聞きいるばかりだ。
「エイジェルステット家の魔法が最後の手段だった。イェルハルドの大使と計り、エリノルが冥王を斥けた。姫も冥王の力を失い、今は、この国の大切な一の姫だ」
エリノルが、冥王を、斥けた。
クラーエスの中で、多くの出来事がエリノルを目指して浮かび上がった。
では。
魂の半分。
この時だ。
この時なのだ。
魂の半分を。
この時に。
冥王を斥けた時、エリノルは魂を半分奪われた。
そのためにエリノルは冥王の使者の訪れを受けることになったのだ。
エリノルがあの塔に閉じこもって避けようとしているのは、冥王の使者。
あの夜、クラーエスも出会ってしまった、黒い使者だ。
隣では姫が椅子から立ち上がっていた。
ふるえる両の手をきつく握りしめ、唇をふるわせ、目からはポロポロと美しい涙がこぼれていた。
「では、やはり。エリノルさまは、わたしのために、冥府の王と戦われた。わたしを、わたしを、命を懸けて守ってくださった。やっぱりそうだったんだわ。あの方は、いつでもわたしのために……」
姫は椅子の中に崩れ落ち、肘掛けに顔を伏せ、声をあげて泣き出した。それは歓喜の涙。恋の成就の確信の涙だった。
「さて、これでわたしは、エイジェルステット家の前にはひれ伏すしかなくなった。冥王の扉からエイジェルステット家を遠ざけるためなら派兵も厭わなかった歴代の王たちが恐れてきたことが始まるのだ。この先、エイジェルステット家はエリノルの働きに見合う求償をしてくるだろう。まずは失った領地を返せと要求してくるかもしれんな。真っ先は南イェルハルド領か」
そこは今、王家の直轄領だ。
「そして再びかつての力を、さらには我が王家を凌ぐ力を、そしてあの冥府の王の扉そのものをも横取りしにかかるだろう。心せよ。彼らの脅迫は洗練されている。これが王家の現状だ」
「いいえ、エリノルさまはわたしとの結婚を求めるわ。だってそうでしょう? わたしを命がけで救った意味は、それしかないもの。いつも王子さまが命をかけて守ろうとするのは愛する姫君ですもの」
姫は震えながら、言い募った。
「それに、わたし、ベルツ卿から聞きましたわ。まだ公式なものではないけれど、エイジェルステット家がエリノルさまを書物の管理者から外したと」
クラーエスははっとなった。この王国風に言えば、エリノルは王位継承権を失ったのだ。
「それは、エイジェルステット家もわたしとエリノルさまの結婚を認めたということだわ。お父さまのお話って、このことでしょう?」
国王は姫をじっと見つめ、クラーエスに目線を移した。
「クラーエスには姫と共にあの老貴婦人と渡り合う気はあるか? 彼らは結束が固くしたたかで手強い。お前の祖父も手を焼いた相手だ。生ぬるい気合いで臨んだら、あっという間にすべてを奪われるだろう。クラーエスは姫と結婚し、いずれわたし亡き後、国と王位を守る覚悟はあるか?」
「いいえ」
ウルリーカ姫がきっぱりと言った。
「わたしとエリノルさまが結婚すれば、そんな問題はなくなります。どうしてこんな簡単な方法を無視されるのですか?」
国王はクラーエスを見据えたままだ。ふっと目を細めて助け舟のように言い添える。
「姫との婚約の取り決めは口約束に過ぎぬ。世襲一等公爵家の力があれば、破棄も可能だぞ」
クラーエスはぐっと歯を食いしばった。
我が父祖よ、力をお与えください。アールストレーム家を守り抜き、輝かせる力を。
「父祖の名にかけて。わたしは、姫を大事に思っています」
国王は立ち上がった。
「国務大臣を待たせている。ふたりとも下がりなさい」
いつの間にか国王の側には一人の男がいて、知らぬ間にクラーエスと姫に歩み寄り、何かを囁きながら空中に指先をすべらせた。最後にクラーエスにもわかる言語で付け加える。
「決して口外はなさいませぬよう」
この男、イェルハルドの大使だ。クラーエスは思い出した。宮廷で何度か見かけた人物だ。
部屋を出る間際に振り返ると、大使は国王にも呪文を囁き、魔法をほどこしていた。




