大新月 1
アルノルドはクラーエスを自宅に招いた。
幼馴染でもあり、親しい間柄の近衛同士、いつもの王の馬車馬亭ではなく、我が家へ。他の誰かを招くことは敢えてしなかった。クラーエスだけの招待だ。
伯爵家一家とクラーエスとで夕食を囲み、その後、居間で二人、友人同士らしい語らいの時間を持った。
「今回のことでは、アルノルドにも心配をかけたな」
たわいのない楽しい話題と近衛とはかくあるべし、といった固い話題とが交互に語り尽くされた。
「まあ、少し、な。エリノルさまは塔に戻られ姫も別邸を出られたのだから、クラーエスもようやく肩の荷が下りたところか」
馬車が城に着くと、姫はすっかり泣き崩れていて、絶対にクラーエスを見やろうとはせず、侍女たちにかこまれ自分の部屋へ去っていった。
「実は、先日、ちょっと変わった酒を手に入れたんだよ。試してみないか? エクスドッター産のワインなんだ。ほら、国王が最近お気に入りの。これはワインというか、ワインみたいなものなんだ。敢えてブドウの搾りかすで作って、蒸留するらしい。搾りかすだからって侮れないぞ。ほんの少ししか作れない希少な酒だ。実はこれを飲んでみたくて、今夜は《王の馬車馬亭》はやめたんだ」
アルノルドが説明して、ふたりは小さなグラスで珍しい酒を飲んだ。
アルコールがかなり強い。
クラーエスはほどよく少しづつ口にしたが、アルノルドは小さなグラスを一気に傾けるのが粋なのだと実演してみせた。二杯ほど。
それで酔いがはやまったらしいアルノルドは、舌がずいぶんと滑らかになっていた。
「クラーエス、なあ、あの祭りの夜、エリノルさまを呼び出したのは姫だそうじゃないか。それもクラーエスと署名した偽の手紙で」
クラーエスは驚いた。
「どうしてお前がそれを知っている」
「マグヌスに聞いた」
「マグヌスには口止めをしておいたのに」
「聞いたのはわたしだけだ。それ以上はマグヌスだって喋っていないさ」
アルノルドは酔眼ながら真顔で宣言した。
クラーエスはこう言うしかなかった。
「二人を信じよう」
アルノルドは信頼には必ず応える、とうなずいた。
「姫はなぜ偽の手紙など送ったのか、わたしには理解しがたいよ。妹によると、姫は怖かったのだと言うんだ」
マグヌスは手紙のことをアルノルドに語り、アルノルドは妹に語った。いくら他言はしないと約束したところで、それが悪意であれ善意であれ、こうして話は広がってゆくのだ。あふれ出た水が元には戻らないように。
「姫はあの夜、二人が出会ったのは偶然だと装いたかったらしい。特別な日、特別な場所での偶然の出会いは、奇跡になるという理屈だと。妹はそう言うんだ。まったく、女の子というのは」
アルノルドは酒を注ぎ足した。
「マデリーネさまがおっしゃっていたそうだよ。妹は王弟殿下とマデリーネさまが話をされているのを聞いたんだ。姫は子供部屋から出たばかりで、まだ外の様子に戸惑っているのだ、とか、それから、なんだったか、えー、慣れるよう協力している、とか、それは国王の依頼だとか、そんな風なことを。どう思う?」
アルノルドはまたグラスのワインを飲み干した。
「ピッチが早くないか?」
「大丈夫だ」
断言する。
「それで、あー、何の話だったかな」
アルノルドはすぐに気を取り直して、
「クラーエスはウルリーカ姫のことをどう思っているんだ?」
「唐突だな、なんだよ」
「いいじゃないか」
子供の頃は、姫とふたり、手を繋いで散歩をし、お菓子を食べた。姫の乳母はお人形のようなふたりだと目を細めていたものだ。だが、クラーエスの祖父が亡くなり喪に服しているあいだに、姫の心から子供の頃のふたりの思い出は消えていた。
それでも。
「幼い頃に国王と祖父に決められた人生を、受け入れない選択肢はない。俺がいずれ姫と結婚するのは我が家の義務であり、喜びだ。領民も歓迎している。くつがえす理由はないし、俺はそれを疑ってはいない。他の女性に惑わされたこともないぞ」
真顔で言われてアルノルドは唸った。
「そこじゃなくて」
「もしかしたら、姫への気持ちは、アルノルドの妹に対するものと近いのかと思う。ずっと年下の妹だ」
クラーエスはなんとか自分の気持ちを探り、言ってみた。どこまで本心にたどり着けたかはわからなかったが。
「妹か。そうだったな。うん、なるほど」
アルノルドは少し黙った。
「だが、姫とのことを義務だと思うのは、クラーエスにとっては崇高な使命や誠意、忠誠心や真心? んー、まあ、そういう気持ちかもしれないが、だから姫は不満なんじゃないのかなぁ」
「そうなのか?」
アルノルドは少し首を傾け、あらためてクラーエスを見た。
「なあ、クラーエスは恋をしたことがあるか?」
「アルノルド、酔っているだろう」
「いいじゃないか。初恋は? ああ、騎士の誓いのお相手の貴婦人は除外だぞ」
「そ、それは」
口ごもる。アルノルドがにやにやするので、クラーエスはムキになり
「いや、そうじゃない。あれは素晴らしく、この上ない幸運だった」
あの時の輝くお姿を思い出すと、クラーエスは身の内にじわじわと温かな幸福を感じる。あの光景を大事にとっておきたいと思っている。すべての風景が煌めき、小鳥たちが祝福するように囀り交わしていた。
「そうだろう、そうだろう。羨ましいよ、クラーエスが。俺はおばあさまと呼ぶべき方で、もちろん素晴らしい方なんだが、それより、その方の、遠縁にあたるお嬢さんが可愛らしくて儚くもやさしげな人で……」
田舎から出てきたばかりで物慣れないところが、自分の力強い手を差し伸べたくなる感じで、実に男心をくすぐられるのだ。そんなことを語りかけて、すぐにアルノルドの肩がしぼんだ。
「ちょっといい感じになったんだ。でも、もう終わった。すぐに終わった」
クラーエスは何と答えればよいのかわからなかった。
「それは、残念だったな」
アルノルドは事の顛末を語りはじめた。酔った語り手の口はちぐはぐに出来事が飛び交い、肝心な点を語りたがらなかったが、どうやらその女性には別の恋人がいるようだと、それもけっこうな年上の男のようだと気づいて、幻滅したらしい。
「どうしたらマグヌスみたいにうまくやれるんだか。ああ、俺も姫と一緒なんだろうか。愚かなことをしでかしそうだ」
クラーエスはグラスを撫でながら、アルノルドの言い分に耳を傾け、うなずいたりした。
「気持ちはわかるよ」
「クラーエスにわかるのか? わかってくれるのか?」
「ああ。俺だって話くらいは聞けるぞ」
残念なことに、クラーエスの酔いは引いてしまっていた。自分にも語りたいことがあった気がする。たとえば、隠し事の上手いエリノルは、心の底では姫のことを思っているのではないか、病が理由で姫を遠ざけようとしているだけではないか。
語ってはならないと思いながらも、口が動きそうな瞬間があったが、機会は去っていた。今夜はアルノルドの夜だ。
「違う。今夜はクラーエスの話をしたかったんだ。妹が言うんだよ。ウルリーカ姫はクラーエスを嫌ってみせ、その強さが、エリノルさまへの愛の強さだと思い込んでいるだけだ、と」
クラーエスは少し驚いた。
「そうなのか? ヤットルッドは鋭いな。つくづく女の子はわからないものだ」
アルノルドは機嫌良くうなずく。
「ヤットルッドは賢いんだ。この前、誕生日に新しいジーウのストールをねだられた。そういう可愛いところもあるんだぞ」
などと、すこし、自慢もしてみせた。
「な、クラーエスも恋をしろ。義務の遂行はまだ先の話だ。恋は、国王に命令されて墜ちるものじゃない」
「友人に頼まれてするものでもないだろう」
「うう……。俺が言いたいのは、そう言うことじゃない。なあ、わかるだろう?」
「わかったわかった」
「いや、わかっていないな。姫を裏切るという意味ではなくて、近衛のうちに経験を積んでおけという意味だ。誰でもいいから、恋をしろ」
「誰でも? それは無責任だ」
「そうさ。なんなら不釣り合いな相手だとしてもかまうものか。恋とはそんなものさ。な、クラーエス。はっと気がついた時には落ちている、そんな恋だ」
今度、誰かを紹介しよう、などと、アルノルドが少しムキになって女性論を語りだしたので、
「そろそろマルディー茶の時間だ」
言葉の切れ目にクラーエスが提案した。
「……うん? ああ、そうだな。明日もあるし」
濃く淹れたマルディー茶を飲むのは、酒宴終わりの合図だった。
召使が部屋の隅のテーブルに揃えておいたものを、アルノルドはあくびをしながら注ぎに立ち上がった。見送るクラーエスは、小さくため息をついた。
「恋、か……」




