魂の半分 7
近衛の詰め所の長椅子にクッションを枕かわりに置き、夜勤用の毛布を掛けて、クラーエスはそこに寝た。
祖父は戦場ではよく野宿したものだ、と言っておられた。そうして雨に打たれ、寒さに震え、炎天下にさらされ。それに比べれば城の簡易ベッドで寝るくらいは不自由というほどではない。夜勤の者と遅くまで話もできて意外な同僚の顔を知ることもできたし、気も紛れ、朝は少々寝坊をしてもゆっくり間に合う。そういう利点もある。
口寂しさをまぎらわせる軽いつまみと香茶を脇の棚に置いてそれを夜食に、睡魔がやってきたらそのまま眠ろうと枕に頭を乗せ読書をしていた。本、といっても手書きで仮綴じの小冊子だ。マグヌスがなにかで見つけて書き留め冊子にして、渡してきたのだ。面白いよ、と。
……フネスリーデン国のさる王の御代、盛大な園遊会が催され、たいまつに照らされた夜の園庭の片隅で、第九王子が美しい魔女と……。魔女は影となって……、リンディルラーウの塔に……
クラーエスの目は字面を撫でるだけで、思いは浮遊していた。
エリノルは魂が半分ない。
本人はそのことを知っているようだと侍医は言ったが、エリノルが楽しげに笑うことを、クラーエスは知っている。
塔への使いを果たして取ってきたあの薬草。
ヘフネル。
激烈な痛み。
沈鬱。
棚にはまだ同じ名前がラベル書きされた薬袋があった。
焚き火の夜の発作。
新月。
マデリーネさまが取り乱して口にされた。
新月なのになぜ塔を出たのだ、と。
そういうことが、しだいにクラーエスの中で一つに結び合わされていた。
あの夜、エリノルは発作の危険を承知で塔を出たのだ。あの手紙に呼び出されて……。
はっと気がつくと、詰め所は暗く、枕元に灯しておいた蝋燭は燃え尽きる寸前の弱々とした炎をやっと浮かべていた。
クラーエスは起きあがった。
「エリノル?」
そこにエリノルの姿があったのだ。
エリノルのことをあれこれと考えていたから夢を見ているような、そんな気がした。ひっそりとしたその立ち姿は、目を惑わせる品がある。
魂が半分ない。
死に近しい。
エリノルの淡い雰囲気は、そのせいもあるのだろうか。そんなことをぼんやりと思っていると、エリノルがふんわりと微笑んだ。
「起こしてしまった? 寝ているようだからこのまま去ろうかと思ったんだけど」
「……夢かと、思ったので」
ぼうっと応え、クラーエスはさっと姿勢を正した。
「王都の外れの別邸から城まで来られたのですか。こんな夜深けに」
「魔法だよ。これは影。身体は君の別邸にある」
エリノルの片手が胸にあがり、影である身体を示した。
目を瞬いて、クラーエスはエリノルをよくよく見直した。あかりが乏しいからかと思ったが、エリノルの姿は薄い。声も少し遠い聞こえ方だ。
影なのだ。
「君にはずいぶんと迷惑をかけてしまったね」
「ああ、いや。そんなことは、どうぞ気にしないでください」
クラーエスはきちんと起きあがった。寝入りばなに読んでいた冊子が床に落ちてしまっている。それを拾い、枕元に置いた。
「座りませんか」
「影だから。それに、長い魔法はまだ無理なんだ」
クラーエスはうなずいた。
「そろそろ僕は君の屋敷を失礼するよ。もう塔へ戻った方がいい」
「そうですか」
「姉が手配をしてくれたから、明日にでもと思っている」
「急ですね」
「すまない。君になんの相談もせずに決めて。だからせめて出て行く前に君にはちゃんとお礼を言っておきたかったんだ」
クラーエスはずっとあの屋敷から遠ざかっていたのだ。知らせてくれるのが突然になったとしても、仕方がない。わざわざ魔法で本人が言葉を伝えに来たのだ。使いを寄越すのではなく。
「それから、姫の迎えを頼みたい」
「わかりました」
言いかけて、クラーエスは訊くなら今だと思いついた。急いで戸棚へ向かうと、そこにしまった近衛の制服の内ポケットから、手紙を取り出す。
アールストレーム公爵家のものであることを示す型押しのシーグルの紋章。今夜、柊樫の下で待っている。クラーエス。との文字。
「これはわたしではありません」
「そうだね」
「なぜ塔を出たのですか」
エリノルは仕方なさそうに答えた。
「姫を、雪の降る夜、外でお待たせするわけにはいかないだろう?」
「あなたは、本当は、姫を」
「クラーエス、姫を迎えに来てほしい」
クラーエスの言葉をさえぎるように言い残すと、エリノルの影が薄暗闇の中にぼやけ、小雨がやむように消えていった。




