魂の半分 5
とりあえずあの場は善処すると答えたが、さてどうするか。国王にはどう穏便に伝えるか、考えると悩ましい。エリノルやマデリーネさまにはできるだけ心安らかな空間を提供したいとも思うが。
クラーエスが思い巡らせながら廊下を歩いていると、殿下の執事のパロランタ氏が話しかけてきた。
「ああ、ちょうどよかった。姫はしばらくここで過ごされる」
パロランタ氏がかすかに目を大きくした。
「それは、ご宿泊されるということでしょうか」
「そうだ。手配を頼めるか」
「はい、承知いたしました。早急に準備いたします。召使たちがリンネル類が足りないと申しております。お許しをいただいて、補充をしてよろしいでしょうか」
「ああ。他にもあれば、必要なだけ揃えてくれ。わたしの許可は不要だ。すべて任せる」
「ありがとうございます。さらにお許しをいただけますなら、お世話申し上げる方々が多く、このお屋敷では残念ながら召使用の部屋数が不足しておりますことが気がかりです」
「別宅だからな」
呼び寄せる人数は制限するしかないが、それでは手が回るまい。ましてや姫まで宿泊するとなると、侍女と侍女のための召使も必要だ。
どうしたものか、とクラーエスは思案した。
執事がほのめかした。
「隣接するのは、ヴィカンデル子爵の館でしょうか」
「ああ。それが?」
「あちらの館をしばらくお借りできれば、召使たちを泊まらせて、そちらから通わせるのも可能かと愚考いたしました」
「なるほど。子爵の館をしばらくお借りできないか、きいてみよう。子爵に手紙を書くから、あとで届けてもらえるか」
「承知いたしました」
頭を下げて去ろうとする執事を、今度はクラーエスが呼び止めた。
「スリジエも用意してもらえるか?」
「イェルハルドのスリッパでございますね。おいくつ、ご用意いたしましょう」
「ベッドから起き上がれるのはまだ先だろうが、エリノルさまと、マデリーネさまの分を。殿下の分も必要かな」
「承知いたしました。姫のスリジエもご用意いたしましょうか」
それでは完全に姫の滞在を許可したことになるが、仕方ない。
「ああ、そうだな。頼む。あれは冬にも履くのか?」
言ってしまってから思い出したが、あれは寒さに耐えられるデザインではない気がした。温暖な南イェルハルドの履き物なのだ。寒冷な王都とは違う。
「こちらの淑女さま方は、スリジエの内側に毛皮を使ったものを着用しているようでございます」
「では、その毛皮つきの暖かいものを、頼む」
「承知いたしました」
今度こそ、執事は去って行った。
いつまでも殿下の召使を使っているのもよくない。自分の館からあと数人呼び寄せよう。マデリーネさまと打ち合わせしたいこともあるし、姫のこともお願いしなければ。
だが、まずは手紙だ。
頭の中で手紙の文面を考えていたクラーエスに、別の召使が告げた。
「公爵さまがご到着です」
「父か。そうだったな。今、どちらに?」
「馬車の中です。姫がいらっしゃるからと、ご遠慮を」
クラーエスは玄関へ向かった。
馬車は館から少し離れた路上に片寄して停まっていた。クラーエスが近づくと、馭者が扉を開いた。
「久しぶりだな、クラーエス」
父は厚めの外套に身を包み、目深にかぶった帽子の下から息子を眺めた。寒い、扉を閉めて隣の席に座れと招く。
「しばらく会わないうちに、ぐっと大人びたな」
父はどこか満足そうに目を細めた。
「うん。だが、少し疲れていはいないか?」
「いえ、大丈夫です」
「気負うことはない」
「大丈夫です」
そうか、と父は肩をすくめ、
「わたしがしばらく過ごすはずだった屋敷は客人で大賑わいだそうじゃないか」
「申し訳ありません。ちょっとした事故があり、使わせていただきました」
おかげで倒れたエリノルを迎える用意が手早く整えられたのは、運がよかった。
「お前の役に立ったのなら、満足だ」
「予定を変更して、本館でお過ごしください」
「息子を煩わせぬよう、そうしよう。姫と鉢合わせは具合が悪かろうからな。どうせならもうひとつふたつ、別の館が欲しいところだが、国王が許してくださらぬ」
クラーエスは馬車を降りようとし、気をかえて座り直した。
「聞いてもよろしいですか。父上は、なぜ国王に叛逆を?」
「叛逆? はっ」
父は笑い出した。おかしそうに肩を揺するのだが、目は笑ってはいなかった。
「よく考えてみるんだ。わたしが叛逆者ならば、国王が世襲一等公爵の位をわたしに継がせるはずがなかろう。爵位は子々孫々、剥奪されている。領地も取り上げられ、お前は無位となって放り出されていた」
「では、王妃とのただの駆け落ち未遂ですか」
「悪友どもはそんな噂をお前の耳に吹き込んだか」
父はしみじみと息子を見た。自分がとうに失ったものを息子の上に見ている目だった。
「お前は若く、人生は順風満帆だ。残念ながらわたしが踏み込んだ道は、期待通りのきれいな絨毯の敷かれた一本道ではなかったのだよ。挫折とは思いがけない所からやってくる。お前も気をつけろ」
クラーエスは横を向いた。説教など、聞きたい気分ではない。まして、この人から。
「で、お前の貴婦人はどなただ?」
「はあ? なぜ知りたいのですか?」
「忠告だ。貴婦人のたってのお願いには耳を貸さぬことだ。おかげでわたしは破滅した」
「わたしの貴婦人はそのような方ではありません」
父は薄く笑った。
「ならばよいが」
「父上は、まさか王妃にたってのお願いをされたのですか。いや、父上の貴婦人は王妃ではないはずだ」
「女性には友情がないとでも思っているのか?」
「話がわかりません」
少しトゲのある言いようになっていた。
「もう一つ、忠告だ。近衛の同期は大事にするんだ」
国王の左右のまなこが他界した現在、国王を補佐する確固とした権力がないことは、クラーエスも承知していた。現公爵の父が王都に不在でも、密かに宮廷内に確かな基盤を持っているらしいことも薄々。
国王親政。臣民はすべてが刷新されて、具体的には不明確な悪いことがすっかり終わり、素晴らしい政治が始まると期待しているが、貴族たちは危機感を持っている。貴族らの背後には、おそらく、この父がいる。
「とにかく、国王がわたしの王都追放令を解いてもよいと周囲に漏らしたと同期に伝えられて、勇んで戻ったのだが。やはり正式なものが出るまで鳴りをひそめることにするよ」
息子に迷惑はかけられないから、などと父は笑い、クラーエスを降ろして馬車を出した。
「まったく」
父はもしや、祖父よりも恐ろしい権力者かもしれない。
クラーエスは渋い顔で別邸に戻った。すっかり調子が狂ってしまった。
「なにをするのだったか。ああ、手紙だ」
気持ちを切り替えて、屋敷を借りたい旨の文面を考えようとしたら、今度は侍医が声をかけてきた。
侍医はクラーエスに歩み寄ると、声を落として言った。
「よろしければ、内密に、お話を」
父のせいでまだ気持ちが乱れていて、できれば後にしたかった。
「急ぎますか?」
「できましたら」
侍医の様子は後回しを許さない雰囲気だ。仕方がない。
「では、そうだな、あちらの書斎で。暖炉に火も入っているはずだ」
先生はぜひに、とうなずいた。
書斎と言っても、この屋敷のものは小部屋にすぎず、蔵書も見栄えのために並んでいるだけだ。暖炉の火は室内がずっと無人だったせいで弱く、じゅうぶんに部屋を暖めてはいなかった。クラーエスは火かき棒で火を大きくし、手をかざした。
侍医も暖炉に並び、重たげに口を開いた。
「エリノルさまのご病状を正確にご報告するのは心苦しいのですが」
「どうぞ、おっしゃってください」
「どうやら、エリノルさまはすでに魂の半分を失っておられるようなのです」
クラーエスははじめ、それを理解できなかった。無言で、自分の生まれる前からアールストレーム家の侍医を務める先生をまじまじと見つめた。戦で片眼を失った祖父の治療もおこなった人物だ。アールストレーム家での信頼は厚い。
「それは? もう少しわかるようにおっしゃっていただけませんか?」
侍医はうなずき、
「つまり、あの方は完全に回復することはもはやないだろうということです。医者には手をほどこせぬご病状なのです。ご本人はどうやら承知しておられるように感じられるが、まわりも気をつけられた方がよいでしょう。ごく些細な不調であれ、それがきっかけとなって、あの方はおそらくたやすく……」
ぷつりと言葉を切り、意味を込めた視線をクラーエスへ向ける。
侍医のおっしゃったことは、言葉のままに受け取れたと思う。だが、胸に落ちてこない。とぎれた言葉の先へ思いが及ぶことを拒んでいる。
「それは……」
クラーエスはしばらく次の言葉が出なかった。
「しかし。しかし先生は後遺症はないとおっしゃらなかったか? すぐに回復すると」
「はい。どうやらエリノルさまは以前に大病を患われたか、元々そういう体質であると思われるのです。昨夜のような発作も、これが初めてではないのでしょう」
クラーエスの火にかざしていた手が下り、まなざしが暖炉の炉格子へ落ちた。薪が小さく崩れた。クラーエスの目はなにも見ていなかった。
「クラーエスさま?」
侍医に声をかけられ、よく考えのまとまらぬまま、口を開く。
「お話はわかりました。他の方々にはまだ内密にしていただきたい。エリノルさまもマデリーネさまも口にしないデリケートな事柄だ。それをこういう形で知ったからといって……」
話しているうちに、じわじわと、ひとつの事実が胸に迫ってきた。
エリノルは遠からず命を落とす運命なのだ。
「……不用意に吹聴するのは、よくない」
クラーエスは自分の言葉を終わらせた。
侍医はいつの間にか退室していた。
見送った記憶のないまま、クラーエスは一人、暖炉の前にたたずんでいた。




