騎士の誓い 4
騎士の誓い。
あの誓いの儀式は、今もクラーエスの胸に秘められた、美しい思い出だ。
儀式の前夜のこと。
世襲一等公爵アールストレーム家の老当主が、病の身体を起こし、重い騎士の盛装で世嗣の間に立っていた。
壁には代々の公爵たちの立ち姿絵が飾られている。男たちは華やかでどっしりとした衣装を軽々と着こなしていた。筋肉で鎧われた体躯、威厳に満ちた顔つき、他を圧する眼光。
現老当主の絵もすでに飾られていた。右目には黒い眼帯がある。初陣は十五歳の時。以来、何度も戦地へおもむき、ある大戦で祖国を救った代償に片目を失ったのだ。
鎧戸を雨が打っていた。湿って寒く、暖炉には火が燃えていた。
炎に照らされた老当主の頬はいっそう痩け、傍にたたずむ従僕の顔は歪んで見えた。
召使が扉を開けた。
老当主に劣らぬ騎士の盛装の若者があらわれた。
老当主はその凛々しい姿をつぶさに見やり、乾いた薄い唇を開いた。
「クラーエス。明日は騎士の誓いの儀式、聖シャルロッタの日だ。そなたにとって騎士としての運命の一日となろう」
「はっ」
クラーエスは緊張していた。
「天に定められし貴婦人への忠誠は、なにがあろうと守り抜くのだ。これこそが騎士の名誉と心得よ」
「はい」
目の奥で光や陰りとなって心のうちの不安や期待がよぎったが、クラーエスは胸前に手を置いて重重しくうなずいた。
老公爵は満足した。まだ見ぬ未来への若者らしい甘いあこがれや漠然としたおののき、未知への恐怖を口にすることは、愚かさや軟弱さの表れでしかない。そのような振る舞いはアールストレーム家の男子には、断じてふさわしくない。立場のある人間は、無邪気でいてはならないのだ。
「私は父祖より受け継いだ家名と誇りのために生きた。それもまもなく終わり、次からは父祖の一員となって後を継ぐ者を激励し叱責し守護する者となる」
祖父は息を継ぎ、鎧を鳴らして少し前のめりになった。
「クラーエスに、もっとも大事なことを命じる。国あっての我ら。国土の安寧に尽くせ。そのためにも国王への忠誠を忘れるな。だが」
しわがれる声を落として続ける。
「だが同時に、我らがもっとも心するは我らの誇り。もし、最後の戦さで太祖王が不可思議な軍隊を呼び込み、そのために盟友として並び立っていた我が父祖が膝を屈することなければ、今この地で王と呼ばれておったのはアールストレーム家なのだ。わしなのだ。そしてお前なのだ。我らの命に受け継がれし運命を忘れるな」
「はっ」
老当主が背筋を正す。
「さあ、誓うのだ。我らが父祖の名にかけて。代々の男たちが背負いし全ての名誉と義務を継ぎ、アールストレーム家を守り抜き、輝かせると」
額縁の中から先祖たちが見守っている。
クラーエスは剣を持ち上げ顔の前に構えた。炉床から差す炎を受け、刃に輝きが走った。
老人は深く息を吐き、目を閉じた。
「アールストレーム家の未来を、クラーエスに託す」
そして翌朝。
儀式当日。
雨はすっかり上がり、一晩かけて洗われたように青く澄んだ空の下、騎士の盛装に身を包んだ近衛の若者たちが聖シャルロッタ聖堂に集まった。
聖シャルロッタの日とは。
かつて、建国戦争の時代。シャルロッタ王妃が敵に囲まれ絶望の中にあった騎士たちを、一団をもって決死の突破を試み救出、勝利をもたらし、騎士たちは感謝と敬意を込めて王妃に生涯の忠誠を誓った出来事に由来する。
そしてシャルロッタ王妃が亡くなって五年後、王妃ご自身に誓いをたてられなかった若過ぎた者たちが、亡き王妃の替わりに王族の女性に忠誠を誓うことを望んで、聖堂に押し寄せた。
聖シャルロッタの神聖な儀式はそのように始まったと言われている。
今も五年に一度、王族貴婦人たちが聖シャルロッタ聖堂に集い、そこに騎士がやってくる。
現在では儀式に参加する資格を持つ者は近衛のみ、そして既婚王族貴婦人のみと定められた。
儀式にはあらかじめの打ち合わせはない。
運命と偶然は等しいもの。
ひとりの貴婦人とひとりの騎士が王妃の廊下で出会い、巡り合ったふたりは互いを運命の相手と認めあい、誓いを交わすのだ。
とは言え王族の女性もさまざまだ。他家から嫁された方、降嫁された方。ご高齢の方、妙齢の方。憧れを込めて名を口にされる方、よくない噂が囁かれる方。
若者たちが誓いを捧げるのは一生に一度きりの定め。どなたに忠誠を捧げるかは、若者たちにとって人生のかかった重大事だった。
一方、五年に一度、若い騎士に誓いを捧げられる貴婦人にとっても、自分の人生を彩るのは誰になるのか、重大事なのは同じ話。
「今回はどの若者になるのかしら」
見目麗しい若者だろうか。機知はとんでいるだろうか。自分も老いてきたことだし、孫のような年頃なら少々癖のある個性的な子も面白いかもしれない。
若者たちの儀式は皇太后さまの信任厚いと言われる神官が指図した。
「儀式は神のご意志に委ねられている。ゆえに、あなた方が控えの間を出る順番もまた、神のご意志」
神官は若者たちを見回し、奥にたたずんでいたひとりを手招いた。スタッファン・ダールだ。
「行きなさい。神の選びし貴婦人に誓いを捧げに」
「は、はい」
このように若者はひとり、またひとりと部屋を出て、出会いの廊下へ向かう。
老神官は無表情で、時折、神の啓示があったのか物思わし気な表情になり、若者たちの顔を順次のぞきこむことで、それぞれの運命を読み取るのだった。
とうとうクラーエスの番が巡ってきた。神官が手招いた。
「行きなさい。神の選びし貴婦人がやって来られる」
自分はこれから運命の貴婦人と邂逅するのだ。
胸が高鳴って、ほんの短い距離を歩くのにずいぶんと時間がかかった錯覚の末、クラーエスは王妃の廊下に到着した。
噴水のある小さな中庭に面した屋根つき廊下だった。貴婦人の姿はまだなかった。
貴婦人の到着もまた、神の偶然なのだ。
クラーエスは空を見やり中庭に目を移し、気を沈めようとじゅうぶんに整っている自分の衣裳を細々と確認した。襟、ボタン、袖の皺、上着の裾、儀剣の手触り、ズボンの折り目、最後に磨かれた靴に目を落とした時、遠くに軽い足音が聞こえ、クラーエスははっと顔を上げ背筋を伸ばした。
柱を並べる廊下にその方が姿をあらわした。
クラーエスの唇がぽかんと開いた。
「……まさか……」
あの衣装は。
純白の絹地が光の具合でかすかなオレンジ色にも黄色にも輝く長衣。長いトレーンが床に垂れ、頭に載せられた聖冠からはベールが流れ落ちて体を包み、その方のお顔を遠くしていた。
あれは、長大な血統の聖族。
王家よりも高貴なる一族。
エイジェルステット家の聖衣ではないか。
王弟殿下夫人、マデリーネさまだ。
若者たちがもっとも誓いを捧げたいと望んでいるお方。しかも今年はマデリーネさまの第一の騎士となれる、唯一の機会なのだ。
感涙し天恩にひれ伏す僥倖に、クラーエスの身体が震えた。
おののく気持ちを抑え、クラーエスは貴婦人のもとへと歩み出た。
気づいたその方がゆっくりと立ち止まった。
玉歩という麗句がクラーエスの胸にのぼった。そのような言葉がこの世で唯一ふさわしい歩みと思われた。
聖衣が微風にそよぎベールがふわりと浮き上がったが、お顔が垣間見える寸前で風が終わり、ベールはしぼむように戻っていった。
ふたたび風にもてあそばれそうになったベールをその方がそっと押さえる。そんな一動作に鳴るさらりとした衣擦れは、天の調べを聞いた心地だ。白いベール越しであってもその方の玲瓏さがあふれ出してきて、漣のように空気をふるわせるようだった。
クラーエスははっと儀式を思い出し、儀剣を抜いて両手で捧げ持った。
こらえようもなく手が震えていた。片膝をつこうとしたら、足までもが震えていた。
「クラーエス・アールストレームです。あなたの騎士として、わたしの一生を捧げます」
自分の声とも思えぬ上ずった声でおごそかに告げ、剣を、貴婦人が取りやすいよう柄の側を差し出す。
風が通りすぎたが、しっかりと押さえられたベールが舞うことはなかった。
その方は白い薄布の中にたたずんでいる。
クラーエスはベールの奥を見つめ、祈った。
どうか、どうか、剣をお取りください。わたしをあなたの騎士とお認めください。わたしの貴婦人とおなりください。
貴婦人は拒否する権利を持っているのだ。
とうとうその方がそっと手を差し出し、剣を受け取った。
指先だけでハンカチでも取り上げようという軽い手元があやうくて、クラーエスは思わず鍛えた腕を差し出し、下から刃を支えた。
しかし、剣が持ち上がらない。
もしや、王都の事情をご存知なく、儀式の次第が分からないのでは。察したクラーエスはもう一度、口を開いた。
「わたしをあなたの騎士とお認めください。お認めくださった証に、どうぞその剣の先でわたしの肩に触れてください」
剣の先が聖衣の裾を漂う。
「わたしはクラーエス・アールストレームと申します。あなたの騎士として、わたしの一生を捧げます。わたしの真心と忠誠は生涯あなたお一人のものです」
その方がふっくらと微笑んだらしいことが感じられた。そのような、花のほころぶにも似た歓喜の気配が確かにあった。
剣の先が持ち上がり、クラーエスの肩に置かれた。
この瞬間、クラーエスはエイジェルステット家の貴婦人の第一の騎士となったのだ。
「神の恩寵に感謝します」
返された剣を受け取り、我が貴婦人へ道を譲る。
自分の貴婦人の姿が聖堂の扉の向こうに消えてようやく、庭で鳥が啼いていたことをクラーエスの耳が聞き取った。
それからほどなく、アールストレーム世襲一等公爵家の老当主の魂は天へ召され、クラーエスはしきたりに従って領地へ戻り一年を喪に服すことになった。




