生暖かい部屋 -1-
「地理を選択したのは失敗だったわ……」
石上は机に突っ伏してうなだれていた。
僕はそんな石上とは対照的に、教科書を開いて小テストの予習をしている。地理は毎回小テストがあるから気が抜けない。
「予習しといたほうがよくない?」
「イヤダーメンドクセェー」
棒読み声が返ってきた。
石上は地理が性に合わないらしく、こうしていつも嘆いている。
僕は誰にも向けず、小さく肩を竦めて窓の外を見上げた。
今日は朝から雨が降っていて、どんよりとした空模様がずっと続いていた。いまは三時限目、選択科目の地理の時間。各クラスで地理を選択した生徒が集まる教室で、僕は石上と並んで席に座っている。
石上ははぁとため息を吐いた。
「一年生のときみたいに、美術とか音楽の選択科目があったらなぁ」
「音楽と美術は受験科目にないから仕方ないよ」
大島高校では一年生のときは美術と音楽の選択授業があり、二年生に上がると文系理系でそれぞれ科目を選択する。僕と石上は二年生の文理選択でお互いに理系を選択した。選択科目には他にも世界史や日本史があったけれど、センター試験で点が取りやすいのは地理だろうと考えたのだ。
僕はページを捲りながら言う。
「音大受験でもすれば音楽が必要になるんじゃない?」
「無理無理。そもそもプロ志望で軽音楽同好会に入ったんじゃねえ」
「知ってる。じゃあなんで入ったんだ?」
「楽器って趣味として続けやすそうじゃん。サッカー部に入っても高校卒業したら辞めちゃいそうだし、それなら家で一人で続けられる趣味を作るほうがよくね?」
「なるほどね」
サッカーは団体競技だし一人で続けられる競技じゃない。サッカーよりも楽器のほうが続けられるというのは、独特な考え方だけどなんとなく納得できる。
「ま、つってもギターも家で練習してると、アンプ通してないのにうるせー言われてアカンのだよな」
「アンプ?」
「ああ、雑に言うとスピーカーのことな。ギターのコードを刺す箱だよ」
たしかにライブ映像とかだと、ギターって何か箱みたいなのとコードで繋がってたな。あれアンプって言うのか。
僕は納得しつつ、適当な感想を言う。
「ふうん、まあ楽器は防音の効いた部屋じゃないとダメだろうね」
「くそ、一人暮らしならもうちょい好き勝手やれるのに」
「一人暮らしで楽器は、それはそれで隣人から壁ドンかクレームが来るんじゃないか……?」
むしろ一人暮らしのほうが騒音トラブルは深刻になるまである。一軒家とは違い、集合住宅のほうが被害を訴える相手は自室の上下左右で二倍に増えるからだ。角部屋にすれば少しはマシだろうけど、マシなだけで問題は解決しない。
石上は不満げに言う。
「アコースティックギターに比べれば、俺のエレキギターはだいぶ大人しいほうなんだけどなぁ」
「え、音量ってアコギのほうが大人しいんじゃないの?」
僕は首を傾げた。
爆音を鳴らすのはエレキというイメージだったから、アコギのほうがうるさいとは思えない。
「いやいや、アンプを通さない状況でうるさいのは圧倒的にアコースティックギターだぜ。エレキギターはあくまで電気信号をアンプに送るだけの楽器だけど、アコースティックギターは弦を響かせる楽器だから音がかなりデカい。エレキはアンプを通すにしても、ヘッドホンに出力できる」
「へえ、そりゃ初耳」
「はー、イラつくぜー」
石上は手足をバタつかせて、僕の自習を邪魔し始めた。
こいつ……。
僕が睨んでも、石上は動きを止める様子がない。
好きなことを好きにやれないのはストレスが溜まると思うが。なにか解決策があればいいけど、騒音は簡単に無くせるものじゃない。せいぜい騒音を軽減するための対策があるくらいだ。
「そういえば、卵の空パックを壁に貼り付ければ防音シート代わりになるって聞いたことがあるよ。それで防音対策したら?」
「ええ……効果あるのかよ卵パックごときで」
「けっこう良いらしい。大事なのはプラチック製じゃなくて紙製のパックであること。とりあえず試してみたら?」
「いいよ面倒くさい。なんにせよいまは部室で練習できるし。部活が使えなくなったときに騒音対策は考えるってことで」
「……」
思い出し損じゃないか。
落胆する僕の横で、石上は簡単に話を締めくくって、「あのさ」と言う。
「篠崎って一年のときは美術だっけ?」
「ああ? 選択科目のこと?」
「そうそう」
「美術だよ。それがどうかした?」
「いや、どんなのだろうと思ってな。音楽はただリコーダーで合奏するだけでつまらなかったんだよ。クラスの連中が美術は面白かったって言うから気になってさ」
「……」
美術の授業か。去年の美術の時間と言えば、まず思い浮かぶのはペンキの鼻をつく匂いだ。
たしかにあの授業は楽しかった。匂いをキッカケにあのときの情景がありありと浮かんでくる。
「まずペンキの匂いだね」
「ペンキ?」
「うん。面白かったのはペンキでベニヤ板にデカい絵を描いた授業。ペンキ缶をいくつも並べて、みんなで思い思いに描いて一つの作品を作るんだ。僕のグループは絵心のない奴ばかりで、色を好き勝手にぶちまけたような滅茶苦茶な絵になってたよ。とにかくペンキの匂いが凄かった」
グループごとに絵の方向性が違ったので、あとでそれらを見比べるのは楽しかった。ああいう珍しい形式の授業はほかの学校ではなかなかないんじゃないだろうか。
石上は興味深げに手に顎を乗せた。
「へえ、ペンキか。あの変な匂いって癖になるよな」
「身体にはよくなさそうだけどね。絵の具とは違うし。僕らが自分たちの絵を現代アートと評したら、先生が現代アートは大変難しいジャンルです、って真顔で言ってたのはよく覚えてる」
「面白そうだな」
「良いことばかりでもないよ、毎回服を着替えなきゃいけなかったから。授業のときはジャージかいらない古着着用だったんだ」
「ああ、汚れるからか。ジャージ忘れたらどうすんの?」
「制服で頑張るしかないけど、制服にペンキが跳ねたらすぐに洗わないと落ちない」
「ふうん、でもやることが派手でいいな。俺も美術にしとけばなぁ」
石上は心底羨ましそうだ。僕は付け加えるように言う。
「後悔先に立たずだね」
「ふん。にしても、篠崎はなんで美術選択にしたんだっけ? どうせなら俺と同じ音楽選択だろ」
「いやいや、石上が別々の授業を取ったほうが面白そうだとか言ってたんだぞ」
「あれ、そうだったか?」
「そうだよ。忘れてんじゃない」
「はは、むしろ覚えてるお前のほうがおかしいって」
石上は捨て鉢に笑う。
「と、そうだ。忘れる前に聞いときたいんだが、例の観劇は上手く行ったのか?」
「ん」
石上は唐突に話を変えた。僕は一瞬口籠って、周囲を見回した。
「急に変な話するなよ」
「いいじゃねえか。劇のことを訊いてるだけだぜ?」
悪びれずに言う石上をやかましく思いつつ、結果だけを伝える。
「ったく、上手くいったよ。帰りのシュークリームも美味しかったって言ってくれたし」
「そりゃ良かったな。俺にも今度奢れよ」
「はいはい」
適当に相槌を返し、教科書を閉じる。
一つ思い出したことがあった。
『劇場なら、結衣の秘密もわかるかもね』
結局、あの日の僕は小野寺の秘密を知ることはできなかった。白河先輩が思わせぶりに言うから頭の隅でまだ気にかかっていはいるけれど、秘密とは一体なんのことなのだろう。
そのことを石上にも訊こうと思ったけど、ちょうどのタイミングで地理の教師が教室に入ってきてしまった。




